昨年9月、《フランスがイラクで活動するイスラム教過激派組織「イスラム国」に対する初の空爆を実施した》とのニュースを聞いたとき、いつかフランス国内でテロが起きてしまうのではないかと懸念していました。とはいえ、今回のパリ市ならびに同市近郊で起こった凄惨な事件は到底予想できず、いまも衝撃が収まりません。
「シャルリー・エブド」新聞社ならびにユダヤ系スーパーマーケットを襲撃した犯人たちの出自はアルジェリア系、マリ系の移民2世だといいます。社会が掲げる共生の理念と現実のギャップに苦しみ、反発した彼らがよりどころとした宗教の存在が、時を経るに従って純粋培養され、肥大化していったのではないか、と拙い想像力をめぐらせています。
フランスのオランド大統領やアメリカのオバマ大統領をはじめとする欧米各国の首脳は、「テロには屈しない」「テロとの戦いは続ける」との趣旨の声明を出しました。しかし、自国のなかから生じうるテロ行為の芽をどうやって摘み取るのか。解決策は「テロとの戦い」というスローガンからは得がたいのではないでしょうか。
現在のイスラム世界の一部に見られる液状化したような状況の原因は、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件にまで遡れると思います。いわゆる「9・11」は本来、刑事犯罪として解決されるべき事件であったにもかかわらず、当時のアメリカのブッシュ政権は対アフガニスタン、対イラクの戦争に訴えました。しかし、あの戦争の勝者は、敗者は、いったい誰だったのか。
今回の事件に対し、直接の当事者とはいえない日本にあって考えうるひとつは、現代世界の問題を解決するための手段として、戦争が、その有効性を失っているということです。
日本国憲法9条は、その誕生時は平和主義の理想を高く掲げたものとして生まれたのかもしれません。しかし、現在の世界を見ると、それはもはや理想主義にとどまらず、現実問題に対処するための手段として、その効力を発揮しなければならない時代になっていると思います。
(芳地隆之)
「日本国憲法9条を現実問題に対処するための手段として、その効力を発揮しなければならない」と考える人の中で、「日本国内でヘイト表現をする人間が、ある日、一斉に消滅したらどう思う?」という例え話をして、「嬉しい」と答える人は多いのではないでしょうか。
「嬉しい」と答える人は、ヘイトが悪で、それを批判する自分は正義だという観念があります。
「シャルリー・エブド」にとって、人権を冒涜するイスラム原理主義者が悪であり、イスラム原理主義者にとって、イスラム教を冒涜する「シャルリー・エブド」が悪であり、それぞれの行動はそれぞれの正義に基づいた行動なのです。
フランスは正義に基づいて「イスラム国」を空爆しており、戦争には必ず「正義」と「悪」という観念が付き従います。
9条の効力を発揮する為には、その前提条件として「正義」と「悪」の彼岸に立たなければならないのですが、それが可能な(超)人がどれだけいるのでしょうか?
>フランスのオランド大統領やアメリカのオバマ大統領をはじめとする欧米各国の首脳は、「テロには屈しない」「テロとの戦いは続ける」との趣旨の声明を出しました。しかし、自国のなかから生じうるテロ行為の芽をどうやって摘み取るのか。解決策は「テロとの戦い」というスローガンからは得がたいのではないでしょうか。
で?もっともらしいご意見ですが、テロリストの卑劣なテロ行為を認めるんですか?テロリストと話し合え、っていうんですか?話し合いの先の着地点はどこなんですか?表現の自由をテロリストが認めると思いますか?
実際にどうする、こうすべき、とコメントしなければ無意味だと思いますがね。
(このコメントは承認されないだろうな。「表現の自由」を認めないサイトですからねw)
同意します。
9条が要求しているのは、国家の軍隊ではなく、世界の合意による集団安全保障体制だと思います。
国際連帯税、世界議会、国際法の整備、国軍の解体と国連警察軍の創設など、20世紀にサボっていた宿題がたまっています。