ベルリンの壁が開放された1989年11月9日の夜から25年が経ちました。
東西ドイツが統一されるのは1990年10月3日。それから長い歳月を経ても、東西ドイツの格差はなくならず、いまも心の壁は存在するという報道をよく耳にします。ただ、当時、現地にいた私にとって、いまも強く印象に残っているのは、19才の東ドイツの青年がベルリンの壁崩壊前後に語った言葉でした。ベルリンの壁が崩壊する1年ほど前、彼はこんなことを言いました。
「ぼくが旅先の外国――といっても、ぼくらは東ヨーロッパくらいしか自由に旅行ができないけれど――で、『どこから来られたんですか?』と声をかけられたら、『ドイツです』と答える。そして『ドイツのどちらから?』と聞かれたら、『ベルリンです』と。もしかしたら相手はさらに尋ねるかもしれない。『どちらのベルリンですか?』って。そうしたら『東ベルリンです』と言う。ほら、そうすれば『DDR(ドイツ民主共和国=東ドイツ)』って言わなくて済むじゃないか」
国民の自由を制限する東ドイツ政府に批判的だった彼は、民主化運動「ノイエス・フォーラム」のメンバーとして活動していました。このグループは、後に旧西ドイツの緑の党と合流し、「同盟90/緑の党」という政党に発展していくのですが、ドイツ統一から数カ月後、東ドイツの体制が消滅したことに、彼は喜ぶどころか、むしろ憂鬱な表情を浮かべて、
「統一したといっても自分が『ドイツ国民』という感じがしないんだ。自分が何者かと問われたら、『ベルリナー』、あるいは『ヨーロピアン』と答えた方がしっくりくるかも」
自分が愛着を抱く地として国家は大きすぎ、自分を育てた文明として見るには小さすぎる、ということかもしれません。その後、ヨーロッパ連合(EU)は拡大していき、統一通貨ユーロが導入されました。
ひるがえって、日本と日本を取り巻く東アジアはどうか。国家間の連携よりも、対立の方が強まっているように見えます。しかし、11月7日付『日本経済新聞』に掲載された「未来描けぬ…韓国の若者覆う閉塞感」という小さなコラムは読んだとき、私は旧東ドイツの青年の言葉を思い出しました。
そのコラムによると、韓国の中・高校生の多くは、深夜まで塾に通い、帰宅した後も夜更けまで勉強し、厳しい受験競争を勝ち抜いた末に有名大に入っても、次は就職や出世の競争が待っており、出世がかなわなければ、38才で「名誉退職」という名の肩たたきにあうというのです。
そうした状況に置かれた自分たちを韓国の若者は「5放(放棄)世代」と読んでいるといいます。人生において「恋愛」「結婚」「出産」「人間関係」「持ち家」の5つをあきらめる世代なのだ、と。
これは他人事ではありません。国を超えた共通の問題であり、その解決のためには、否が応でも私たちに「東アジア人」意識が求められる――そんな時代がきているのではないでしょうか。
(芳地隆之)