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こども医者毛利子来の『狸穴から』:バックナンバーへ

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「マガジン9条」の発起人の1人でもある小児科医、「たぬき先生」こと毛利子来先生。
お仕事や暮らしの中で感じた諸々、文化のあり方や人間の生き方について、
ちょっぴり辛口に綴るエッセイです。

こども医者毛利子来の『狸穴から』(14)

もうり・たねき(小児科医) 1929年生まれ.岡山医科大学卒業。東京の原宿で小児科医院開業。子どもと親の立場からの社会的な発言・活動も多い。「ワクチントーク全国」元代表、「ダイオキシン環境ホルモン対策国民会議」元副代表などを経て、現在は雑誌「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」編集代表、『マガジン9条』発起人などを務める。著書に『ひとりひとりのお産と育児の本』(1987,毎日出版文化賞)、『赤ちゃんのいる暮らし』、『幼い子のいる暮らし』などがある。最近は、友人でもある小児科医・山田真氏との共著である『育育児典』(岩波書店)が、評判を読んでいる。HP「たぬき先生のお部屋」

贈答の美醜

 盛夏。お中元の時期だ。
 だが、その習わしは、年々、さびれつつあるという。たぶん、不景気のせいが大きいのだろう。
 現に、ぼくのごとき町医者が頂戴する物品も、目に見えて減ってきている。

 これには、正直いって、ちょっぴり寂しい気がしないではない。なにしろ、十年くらい前までは、部屋の隅に積み上げるほど豪勢だったのだ。

 しかし、当時の戴き物の大半は、有り体に言って、儀礼にすぎなかったようだ。
 ただお中元の時期というだけで、贈られてきたとしか見受けられないものがほとんどだった。
 もしかすると、特別に手厚い医療をしてもらいたいという魂胆が秘められたものもあったかもしれない。

 それはそうだろう。そもそも、贈答という行為には、世渡りの小賢しさがつきまといがちなのだ。
 ワイロともなればなにをかいわんやだが、そこまでは露骨ではなくても、なんとなく見返りを求める気分が生じるのを避けがたい。少なくとも、世間づきあいを損ねないための、方便として使われることは多いにちがいない。

 だからこそ、受け取ったほうは、贈り主に、愛想を良くしなければならなくなる。
 いや、それだけでは足りなくて、いただいた物品の嵩に応じて、「おかえし」をしなければならなくなる。
 そして、その嵩の値踏みが、また難しい。「おかえし」が、いただいたものより、高すぎても低すぎても不味いのだ。見栄を張る同士だと、金額の競い合いにもなりかねない。
 そんな事情を考えると、贈答という習わしがさびれつつあるのは、けっこうなことだと思う。
 それが減ったといって、寂しがるぼくは、大いに恥じなければなるまい。

 けれど、だからといって、ぼくは、全ての贈答を否定する気にはなれないでいる。
 贈答は、野蛮な社会の風習だから、近代化の妨げになるとする考えにも、必ずしも賛成できないでいる。

 なにしろ、贈答という行為の中には、小賢しさの一片もうかがえない場合がある。
 利益誘導はおろか世間体さえ無縁な、純粋に心からの贈り物とかお返しとかも、確かにあるのだ。

 ぼくの場合でいえば、重い病気が治った子どもが「センセ、アリガトウ」と、チョコレートでもくれたら、すごく嬉しい。たとえ、それが溶けかかっていてもだ。
 嬉しさのあまり、ぼくも、取って置きのポケモンスタンプをあげたりしてしまう。
 親だと、そんな程度ではすまなくて、ワインとかメロンとかをいただくことになるが、わざわざ持参してくださったり、心のこもった手紙をつけてくださると、医者冥利に尽きる。ひたすら、有り難いことだと思う。
 それでいて、そんな親子に「特別な」はからいなどは決してしないのだ。

 そんな贈答なら、あってよいのではないか。いや、正直なところ、あって欲しいとさえ願う。
 なにごとも形式的、合理的な取引だけに矮小化してしまう近代化路線は、あまりにも人の心をないがしろにするものだ。

 ただ、それにつけても、思うように贈答をできなくさせている生活の困難は、それこそ人の心の叫びとして、ぶっ飛ばさなければなるまいと思う。

利益誘導や見栄のためだけの贈答には「NO」を言いたいけれど、
たぬき先生が言う「心からの贈り物」に、
嬉しくてたまらない気持ちになる瞬間があるのも事実。
この夏、あなたは誰に、どんな贈り物をしますか?
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