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こども医者毛利子来の『狸穴から』:バックナンバーへ

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 東京原宿に小児科医院を開いて50年。時代は変わっても、子どもと親に温かなエールを送りつづけている毛利子来さんは、お名前から「たぬき先生」とニックネームをつけられ、慕われ頼りにもされています。「マガジン9条」のことも「この人に聞きたい」の第1回目に登場いただいて以来、たくさん応援いただいています。そしてこのたび、連載エッセイが今月よりスタートです。たぬき先生がお仕事と暮らしで感じることども、特に文化のありかたと人間の生きかたについて、辛口に綴っていただきます。

こども医者毛利子来の『狸穴から』(1)

もうり・たねき(小児科医) 1929年生まれ.岡山医科大学卒業。東京の原宿で小児科医院開業。子どもと親の立場からの社会的な発言・活動も多い。「ワクチントーク全国」元代表、「ダイオキシン環境ホルモン対策国民会議」元副代表などを経て、現在は雑誌「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」編集代表、『マガジン9条』発起人など務める。著書に『ひとりひとりのお産と育児の本』(1987,毎日出版文化賞)、『赤ちゃんのいる暮らし』、『幼い子のいる暮らし』などがある。最近は、友人でもある小児科医・山田真氏との共著である『育育児典』(岩波書店)が、評判を読んでいる。HP「たぬき先生のお部屋」

新年は「おめでたい」か

 新年は、ちょっぴり、うっとおしい。
 なにしろ、「おめでとう」に攻め立てられる。こちらも、つい「おめでとう」をオウム返しする。
 内心、なにが「おめでたい」のか、ためらいが込み上げてくるのだが、ぐっと飲み込む。きっと、顔は、歪んでいるにちがいない。

 まあ、「しきたり」と割り切ればよいのだろうが、いかにも形式的にすぎるではないか。おおかたは、心がこもっていない。
 もちろん、形式は、あったほうがよいことも多々あろう。日常の挨拶をはじめ、式典とか茶の湯の作法などなど。
 だが、それらは、限られた人間どうしの、その時その場にふさわしい形式にすぎない。
 なのに、「おめでとう」は、すべての人間に、あまねく強いられる。その期間も、正月の1日から15日までと長く、万人に共通だ。場所ときたら、どこでもかまわない。せいぜい、喪中とか失業とか失恋とかにだけ気をつかえばよい。

 どうやら、「おめでとう」は制度になっているのだ。それも、「めでたい」という意識の、人々相互による共有。「今年こそ、なにか良いことがある」という根拠のない夢の仕掛け。
 だからこそ、不況や生活苦が確実に予想されようと、「おめでとう」と祝い合って、ごまかしているわけだ。
 そういえば、あの生死を彷徨わされた戦争中でさえ、人々は「おめでとう」を交わしていた。
 なんたる卑屈。幸福感のすり替えであることか。

 そのうえ、「おめでとう」が交わされる期間は、人々を家族の中に閉じこめる力が強く働く。
 恋人は逢いにくくなり、夫婦も実家に帰ることが多くなる。このごろは、スキーや旅行などで、家族とは別に正月を過ごす若者が増えてはいるが、それでも、親に悪いという思いを吹っ切れているかどうか。
 このことでは、「おめでとう」は、個人の自由を束縛する役割も果たしているのかもしれない。

 とにかく、それやこれやで、「おめでとう」は、口にしたくない。なるべく、「こんにちは」ですますよう努めている。
 ただ、「努め」なければできないのが、情けないところではあるが。

今月より始まりました「こども医者毛利子来の『狸穴から』」です。
「おめでとう」って「マガ9」でも、自動的に言っちゃってますけれど、
ここで一つ「おめでとう」について考えてみるのもおもしろいことでは? 
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