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いま、山本周五郎が経営者だったら。企業のセーフティネット化を考える。【4】斎藤駿(カタログハウス相談役)

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かあちゃん(昭和30年)

 ここまで、『将監さまの細みち』のおひろ、『赤ひげ診療譚』第6話「鶯長屋」のおふみ、『さぶ』のさぶと栄二を通して、もっぱら「助けられる側」の心情を辿ってきました。「助ける側」については、『赤ひげ診療譚』の新出去定の憤りにほんの少し触れただけです。
 この偏向は私の意図ではありません。山本周五郎の市井物はもっぱら「助けられる側」の視点から描かれているからです。「助ける側」の人間を主人公とした『赤ひげ診療譚』や『雨あがる』は例外的な作品なのです。「助ける」を行動に移す際は、まず「助けられる」側の心の内を理解することから始めないといけない。山本周五郎を素直に読めば、だれの心にもこのようなメッセージが伝わってくるはずです。つまり、ここまでの3つの章は、今日の「助ける」を考えるための準備体操のつもりで書いてきました。
 いつまでも山本周五郎のうしろで寝てはいられない。ここからは「助ける側」にいる私自身の「助ける」について考えていきます。
 私は30代から経営者として生きてきたので、どうしても会社の視点から「助ける」を考えてしまいますが、経済合理性で成立する会社が「助ける会社」になれるはずないだろ、と初めから冷ややかな目で見ないように願いますよ。

 08年暮れの年越し派遣村のテレビ放送を見るまで、まだまだ総中流社会は存続していると私は甘く考えていました。食(職)と住を同時にとり上げるなんてね。それにしても、無知は無関心の同義語なんだということをあのテレビで痛感しました。そしてあらためて、路上生活者や派遣切り失業者の問題と取り組んでいるNPO「もやい」の人たち、あるいはアフガニスタンで井戸掘りをしているNGO「ペシャワール会」の人たちに代表される全国の「助ける市民たち」の存在について考えさせられました。
 あの人たちの、黙っては見過ごせない、助けないではいられないという熱い感情(私の世代では惻隠の情とよんでいます)もまた、才能と同じように生まれつきのものなのでしょうか。それとも、環境や学習によっては私の感情もかれらと同じくらいに発熱する可能性はあるのでしょうか。
 他人を助けたいという感情を、山本周五郎は『かあちゃん』(昭和30年)という作品でとり上げています。周五郎にしては珍しい「助ける側」の人間(それも町人)を主人公にした作品です。
 『かあちゃん』は、私が山本周五郎という名前を知るきっかけになった思い出の作品でもあります。貸本屋で借りた「オール讀物」昭和30年7月号にのっていました。この年、周五郎、52歳、私、20歳。前述したように、山本周五郎の名前を世に広めた『樅の木は残った』が新聞連載分に後半の書き下ろしを加えて単行本になったのが昭和33年ですから、文芸評論家や知識人の間ではまだ周五郎の名前は知られていません。読者と編集者だけに評価されていた時代です。
 時代小説は好きでよく読んでいましたが、貧乏と正面から向き合って熱いメッセージを発信する作品が存在するとは露思わなかったので仰天しました。あらためて「オール讀物」を買って『かあちゃん』の掲載ページを切り取り、表紙をつけ、糸でしっかり綴じこんで友人たちに回覧したくらいに仰天しました。だれも仰天してくれませんでしたが。
 主人公は5人の子を持つ43歳の未亡人、お勝です。お勝と長女は裁縫の内職、長男は大工、次男は左官、三男は魚河岸づとめ、六歳になる末っ子までも道で拾い集めた金物を屑屋に売ってせっせと稼いでいる働き者一家。そのくせ、近所付き合いのわずかな寄附も出ししぶるので、長屋の人たちからは「ごうつくばり」と顰蹙を買っています。「いまにこのまわりの一帯の長屋を買い占めるつもりじゃねえのか」という悪口を居酒屋で耳にした若者が、その晩、お勝の家に忍びこみますが、初めての泥棒体験なので、すぐにお勝に気づかれてしまいます。

「ひとこと聞くけれど、まだ若いのにどうしてこんなことをするんだい」
「食えねえからよ」と男は云った、「仕事をしようったって仕事もねえ、親きょうだいも親類も、頼りにする者もありゃあしねえ、食うことができねえからやるんだ」
「なんて世の中だろう、ほんとになんていう世の中だろうね」とお勝は太(と)息(いき)をついた、「お上には学問もできるし頭のいい偉い人がたくさんいるんだろうに、去年の御改革から、こっち、大商人(おおあきんど)のほかはどこもかしこも不景気になるばかりで、このままいったら貧乏人はみんな餓死をするよりしようがないようなありさまじゃないか」
「そんなことを聞きたかねえ、出せといったら早く金を出したらどうだ」

 まるでコンビニ泥棒をして捕まった今日の若者のセリフのように聞こえますね。
 この一節を私がリアルタイムで読んでいた昭和30年も今と同じように求人数よりも求職者数がはるかに上回っていた失業時代でした。私はまだ学生でしたが、コネがないかぎり、いくら成績がよくても一流企業には入れないとみんなが思っていた時代です。
 さて、「金を出せ」と凄んでみせる若者を前にして、お勝は一家全員でせっせと貯金している理由を聞かせるから、それでも強奪するというのなら好きにしなさい、と言って「ごうつくばり」の事情を明かします。
 3年前に長男の友人が暮らしの金に困ってつい盗みを働いた。刑期は2年で今年出所するが、前科者に仕事が見つかるわけはないから妻子ともどもさらなる苦境に追いこまれることは目に見えている。そこで、お勝は子どもたち全員に長男の友人におでん屋をやらせたいと提案した。全員が賛成して2年間せっせと働いて貯めたお金がこれだ。これは見たこともない長男の友人のためにお店を借りる資金だ。
 その話を聞いた若者は黙って出ていこうとしますが、お勝は職も寝る所もない若者を見過ごせなくて、親戚の子が夜中に訪ねてきたと偽って同居させることにします。5人の子どもは母親の説明を赤子のように疑わず、心から歓迎します。長男の斡旋で職もみつかり、一家と一体化した若者は思わず「かあちゃん」と呼んで出勤していくところで終ります。
 こうやって要約していくと、顔が赤らむような家族団結の話ですね。すでにその2年前には、今でいう家族崩壊のはしりを描く映画が話題をよんでいました、小津安二郎の『東京物語』(昭和28年)。子どもたちの近況を知りたくて尾道から上京した両親を、日々の暮しに追われている子どもたちはついつい邪険に扱ってしまうという話です。そんな現実に逆らうように、家族ぐるみの無償奉仕を歯の浮くようなセリフと涙(登場人物はやたら涙を流す)で語るのですから、『かあちゃん』は当時でも古臭く思えました。友人たちが安っぽいお涙頂戴物語とそっぽを向いたのは当然でした。それなのに私だけがやたらこの作品に感動したのは、その前の年まで日本共産党の周辺にいたせいでしょう。今の人には信じられないかもしれませんが、当時はまだ市民という観念が確立されていなかったので、政党を媒介しなければ社会的な活動はできないとされていました。
 貧乏の解消は当時も今と同じくらいに大きな社会問題になっていました。私は、社会の仕組みを根本から変えないかぎり貧乏は解消しないという共産党の理論を正しいと考えていましたが、同時にいま目の前にある貧乏への取り組みも大切な活動だと考えていました。
 ところが共産党の方針は違っていました。目の前の貧乏への取り組み(日常闘争とよんでいました)は目的ではなくて党勢拡大のための手段だと軽視していたのです。日常の貧乏をひとつひとつ解決していっても根本の解決にはつながらない、そんな個人レベルのヒューマニズムはむしろ体制の維持につながってしまう修正主義、改良主義だという理屈です。根本解決の革命か、応急手当の日常闘争かなんて、どうして二者択一的に優先順位をつける必要があるんだ? とNGO全盛時代に生きる今日の若者は不思議に思うでしょうが、その頃の共産党は武装闘争で革命を成就できると主張していましたから、日常闘争軽視は当然の帰結だったのです。日常闘争重視を主張する私は動揺分子ということで結局、入党を認められませんでした。共産党が武装闘争路線放棄を決議(六全協決議)するのは昭和30年の7月、『かあちゃん』がオール讀物に掲載された翌月です。
 ちなみに、その頃、共産党の軽視する日常闘争に力を入れて貧困層に勢力をひろげていったのが創価学会でした。「一丈のほりをこへぬもの、十丈、二十丈のほりをこうべきか」という折伏の論理はずいぶん説得力あるなあと思ったものです。
 『かあちゃん』と出逢ったのはそんなときでした。私の理性は、戦争中じゃあるまいし、自分を殺して他人につくすのは人間の本性にさからった無理である、自分も他人も共に幸せを目指すのがあるべき生き方だと考えているのに、やたら『かあちゃん』の世界に強く惹かれてしまいました。貧乏に苦しんでいる目の前の他人に対して、きみは肉親のような感情をもって接することができるのか、肉親に接するような体温のある感情を欠落した理論だけで革命が成就するのか、と私に問いかけてくるような作品だったからです。
 その後、『かあちゃん』以前の作品を読んでいったら、案の定、周五郎は当時の日本共産党に批判的でした。『湯治』(昭和26年)には「政治が悪くて苦しんでいる者や貧乏で困っている大勢の人間のために働いている」栄二という革命党員が出てきて、実家へ運動資金をせびりにいきますが、姉のおしずは「貧乏で困っているのは家よ、それを本気で言うのなら、家を助けて頂戴、あたしたちを助けてよ」と刃物を持ち出して追い返します。その前年の『楽天旅日記』(昭和25年)ではあからさまにソ連の社会主義の非人間性を諷刺していました。
 のちに心理学の本を読むようになって、『かあちゃん』で描かれていた理想の人間関係は人間の原始的な関係である母と乳児の一体化(※)に根ざしていることを知りました。

※母親に抱かれている乳児は、母親がなにかに驚いたり、あるいは緊張すると、同じような反応をしめす。そうして、母親が神経質だと、子どもも非常に神経過敏になる。それは、母親の模倣をするのではなく、母親と子どものあいだに、心理的な一体化がおこっているからである(南博・社会心理学入門・岩波新書)

 『かあちゃん』の子どもたちは母に服従しているのでも模倣しているのでもなくて、心理的に母と一体化したまま成長しているから、母と同じように血の繋がらない他人を助けられるわけですね。
 それでは、私という人間はどうだろう。他人に対してどこまで家族のような気持で接することができるのだろう。『かあちゃん』を読んでから今年でなんと54年も経ってしまいましたが、『かあちゃん』に突きつけられたこの命題は74歳になった今も解けない宿題として胸の中に生きています。
 赤の他人を赤の他人としか見られない私は、その他人がどんなに困っている状態にいることがわかっても、即「助ける」というアクションを起こすところまではなかなか感情の温度が沸騰しません。この感情温度のアクションに転化する沸騰点の差が、もやいやペシャワール会の人たちと私の差なのでしょう。おそらく、もやいやペシャワール会の人たちは、『かあちゃん』のお勝のように、自分と他人を容易に母と子、子と子の関係に擬似化してしまえる人たちなのでしょう。
 私が赤の他人を他人とは思えないで行動に移すケースといったら、せいぜい、手術をすれば助かると言われている難病の幼児がいて、しかし手術代が不足していて手術を受けられないといったニュースを見たときでしょうか。さすがに、見知らぬその幼児に昔のわが子、今のわが孫を重ねてしまって他人とは思えなくなるからです。しかし、夜の新宿を歩いていて路上生活者の姿が目に入っても、情けないことに私の足は止まりません。
 足は止まらないくせに、私は経営者として生きてきたせいか、家族という概念を血縁者から非血縁者にまでひろげていく『かあちゃん』の人間観には違和感を感じません。ビジネスの世界では古くから採用されてきたおなじみの考え方だからです。いわゆる終身雇用を核とする家族主義的経営ですね。毎日顔を合わせ、暮らしを立てるという共通の目標に向かって共同作業する空間が会社ですから、さすがに社内の人間はお互いを赤の他人とは思えなくなります。これが家族主義的経営を可能にする基盤です。
 家族主義的経営と聞いて顔をしかめる人もいるはずです。この言葉は暗い過去をひきずっていますから。社員に家族意識を植えつけることで父親である経営者に忠誠心を強制し、社員の権利や利益を吸い上げていった戦前のそれを連想してしまう人は多いと思うのですが、かつて意味をねじ曲げて使われた歴史があったからといって、その過去に気がねして「家族主義的経営」という言葉を使えないというのも不便な話です。言葉が意味どおりに使われているかどうか、それこそ社員は実感でたしかめてもらえることですから、私は遠慮なく使うことにしています。
 家族主義的経営は戦前どころか、『さぶ』の時代から存在していました。林玲子さんの『江戸店の生活』(江戸町人の研究・第二巻)によると、商店の場合は、「丁稚・若衆・手代・小頭役・年寄役・支配役の諸段階をつらぬく昇進制度が年功序列と業績主義を並用した形で実施されていた」とあります。白木屋日本橋店の場合でいうと、支配役3人、年寄役5人、小頭役10人の三役が支配衆、つまり管理職として手代以下の部下を使っていたそうです。
 もっとも、この頃は全員終身雇用というわけではなくて、「目出度(めでたく)勤めあげたとされる多くの者は入店後一六年目の中登り後から一一~二年ほどの間に店を去っており、年齢でいうと二八~四〇歳ぐらいの壮年期に第二の人生を歩み出すことを余儀なくされている」
 終身雇用、つまり労働者を長期にわたって育成、定着させる必要が発生してくるのは、おそらく近代資本主義が確立された大正の頃からなのですね。その終身雇用を江戸時代から確立していたように私は錯覚していました。時代小説はまげを結った現代人が活躍する小説なので私はつい司馬遼太郎の長州藩や藤沢周平の海坂藩、その藩士たちを現代の企業と企業人になぞらえて読んできたせいです。たしかに藩士は終身雇用(!)ですものね。
 現代の企業や企業人になぞらえるべきは「士」ではなくて町人の「工」と「商」でした。藩は企業ではなくて、地方自治体、藩士は地方公務員に擬したほうが本来の階級モデルなのでした。
 社会主義だけではなくて、資本主義という経済システムにもどうやら寿命があったらしくて、先進国の資本主義はいま老衰期から終末へ向かっているようです。しかも、そのあとの経済システムのグランドデザインがさっぱり描けず、もっぱら新興国の少年期資本主義に依存するだけという先の見えない社会になっています。終身雇用は以前にも増して、失業=貧乏に対抗する重要なセーフティネットの一つになっているといっていいでしょう。
 年金がもらえる60歳までは仕事と収入を保証されるのが終身雇用。母である経営者のつとめは、いかにこの終身雇用を守っていけるかにつきる。よし、倒産しないかぎりは会社の資産がゼロになるまで雇用を守る。欲のつっぱった株主に介入されないために会社は上場しない。これでまちがいないな、あとは終身雇用を完遂できるよう、会社を危機にさらさせない超安全経営に徹することだ。
 と思っていたら、最近になって、終身雇用という企業のセーフティネットは正社員だけを守るエゴイズムではないのかという批判が聞こえてくるようになりました。正社員を守るためなら、契約社員やアルバイトや派遣社員の生活を犠牲にしてもいいのか。『かあちゃん』に出てくる言葉を使って言えば、正社員終身雇用主義は「ごうつくばりだ」という批判です。
 終身雇用をレーゾン・デートルとしてきた私にとっては由々しき大問題です。悩ましいことには、私の会社には正社員を上回る非正社員がいるのです。うーん、困った。終身雇用をベースにして、毎年の利益の中から少しずつ貧困国の病気の子どもたちにカンパしていこうという私の「助ける会社」イメージはとたんに混濁してきました。
 『かあちゃん』のお勝は長男の友人と泥棒に入った若者の2人を助けるかわりに、長屋の太兵衛がおふくろの長患いで暮らしに困ったときの寄附も拒否するというルールをつくりました。一家で助けられる他人量は2人が精一杯だという割り切り方です。
 経営者の私にとって、お勝のこの「2人が精一杯」は切実な問題です。雇用した人すべてを正社員にして60歳までの雇用を約束していたら、まちがいなく経営は成り立ちません。企業を安定させてくれる世の中とは需要と供給(生産)のバランスがとれている世の中ですが、そのバランスはつねに安定と不安定をくり返していますからね。オール正社員主義(正社員終身雇用エゴ説はつまるところこうなりますよね)を主張する人たちの意見を受け入れてしまったら、とたんに私は会社のバランスを崩して『善人サム』(※)になってしまう。
 山本周五郎さん、あなたが経営者だったらどう対応します?
 終身雇用の正社員と、終身雇用を約束できない非正社員を、世間様に納得してもらえる基準でちゃんと線引きできますか。もし、経営がピンチに落ち入ったときは、あなたでも前者を守るために後者を残酷に辞めさせますか? 辞めさせた後者の中に「助けて」を言えない人がいたら、どうします?

※戦後まもなくの時期につくられたレオ・マッケリー原案・監督のアメリカ映画『善人サム』(46年)。

 主人公サム(ゲーリー・クーパー)は小さな街にある百貨店の支配人。ところがサムには、困っている他人を見ると手をさしのべずにはいられない〝癖〟があり、奥さんが貯金したマイホーム資金の5000ドルも友人の脱サラ資金に貸してしまいます。返済は月額39ドルだから全額返済には10年以上かかる計算。
 旅行に出かけようとしていた隣家の主人が車の故障で困っていると、さっさと自分の車を貸してしまう。その隣家の主人が旅先でその車を衝突させてしまうと、今度はその賠償金まで引き受けてしまう。数々のタイプのヒーローを演じ分けてきたクーパーは、ここでは自己犠牲のヒーローを演じているわけですね。
 奥さんが念願のマイホームを見つけてきてサムに相談したことからマイホーム貯金ゼロの事実を白状せざるを得なくなり、当然、奥さんは頭にきて夫婦仲が気まずくなります。しかし、5000ドルを借りた脱サラ友人が1000ドルの利子をつけて全額返済できる幸運をつかんだところから危機は救われ、マイホームの契約も成立してめでたしめでたし……と、これまでのハリウッド映画ならこのハッピーエンドでしめくくるのですが、この映画の凄いところはこのあと。戻ってきた5000ドルをサムは再び街のために使ってしまうのです。
 つまり、サムに託してマッケリーは善意の無限界は自己破壊だと言っているわけですね。「他人を助けるほど異常者扱いするこんな世の中なんか、もう落伍してやる」と最後にサムがヤケっぱちになって泥酔するシーンがとても印象的でした。わが国ではこの『善人サム』を評価する人は一人もいないので、つい長々と紹介してしまいました。

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