『赤ひげ診療譚』で吐露された山本周五郎の憤りは、もっぱら貧乏人を放置する権力(国)の無責任に向けられていました。権力側が貧乏をつくるから批判するのではなくて、権力側が貧乏を放置するから批判する、周五郎の憤りにはそんなニュアンスが濃厚です。
これは『赤ひげ診療譚』にかぎったニュアンスではありません。貧乏小説と言えばだれもが山本周五郎を連想するくらいなのに、なぜか、貧乏の抜本的解消に言及した作品は見当りません。かれは『栄花物語』(昭和28年)、『正雪記』(昭和31年)、『樅の木は残った』(昭和33年)などで政治家の世界をとり上げているのですが、貧乏の解消に腐心する政治家は一人も出てこないのです。
どんな経済システムに変えても貧乏は発生するし、その貧乏をはね返せる人と返せない人との格差は存在しつづけるというあきらめが、周五郎の考え方の根っこにあるせいでしょう。金持と貧乏人の差は人が持って生まれた先天的な才能や性格、そして運不運からつくられる確率が高い、と周五郎が解釈しているせいでしょう。
「人間はみんながみんな成りあがるわけにはいきゃあしない、それぞれ生れついた性分があるし、運不運ということだってある。檜物町や金六町はそうなれる性分と才覚があったから成り上がったんでしょ、おまえさんにはそれがないんだから、しょうがないじゃないか」(ちゃん)
山本周五郎の市井物(無名の町人たちを主人公とする小説)にはこういうセリフがいたるところでくり返されます。どんなに努力しても人は生まれつきの可能範囲以上には成長しにくい。同じ量の努力をしているのに金持になれる人と貧乏から這い上がれない人が出てくるのはそのせいだ。出世できる人とできない人が出てくるのはそのせいだ。才能や性格が生まれつきのものである以上、そこから発生する貧乏は自己責任ではない。あるいは運不運も本人の努力とは関係なしにやってくるのだから、不運がもらたす貧乏もまた自己責任ではない。
ゆえに権力(国)は貧乏を放置してはいけないのだというのが、いわゆる市井物を通して語ってきたこの作家の考え方です。
ちなみに、時代小説に初めて市井物とよばれるジャンルを開拓したのは山本周五郎で、記念すべき第一作は昭和24年の『柳橋物語』でした。つまり戦前の時代小説には無名の町人を主人公とする小説は存在しませんでした。
そんな周五郎市井物の集大成とも言える作品が、晩年の『さぶ』(昭和38年)です。
「どんな人間だって独りで生きるもんじあない」と与平は続けた。
「世の中には生まれつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生まれつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、目に見えない力をかしているんだよ」
この相互扶助の精神が『さぶ』のメイン主題です。人は一人では生きられないのだから、能に恵まれた者と恵まれない者は対等の立場で助け合わなければならないという与平の述懐を、人は一人では生きられないから会社を必要とするんだというふうに、私はあらまほしい会社論に読み替えています。若い頃は会社なんて利益集団でいいだろうくらいに考えていたのですが、さすがに齢を重ねるにしたがって、会社は成員の相互扶助を第一義の目的とする集団として捉えないと経営する張り合いがないと思うようになりました。
そう言えばかなり大昔になりますが、山本周五郎の『ちいさこべ』(昭和32年)を彷彿させるような「一人では生きていけない」を目撃したことがありました。
あれは敗戦の翌年だったか翌々年だったか、そろそろ焼け跡に借家が建てられていないかと疎開先の栃木県から上京する母のお伴で上野駅に着いたときに目撃したシーンです。駅の構内で地方からやってきた人がお弁当を食べていました。そこにやってきた私と同じ歳くらいの戦災孤児(当時は浮浪児と蔑称されていた)のグループが、懸命にくれくれとせがんでいましたが手をふられました。スゴスゴと引き下がるかれらの様子を見かねた母は「お前、1食くらい我慢できるね」と私に言って、昼食用に持参した2人分の乾燥芋をそっくりリーダー格の少年に渡しました。当然、みんなに分けて食べるのかと思ったら、1枚だけとり出してみんなでほんの1口ずつ齧って回し、あとはリーダーがぜんぶポケットにしまうではないですか。食べ物が集まらない日に備えて貯えておくのでしょう。
リーダー格の少年がいなければ小さい子どもたちは生きていけなかった。大きな子どもや小さい子どもが分散して食べ物を集めてこなければ、あのグループは生きていけなかった。かれらにとって、「一人では生きられない」はカッコいい箴言(しんげん)や格言ではなくて、切実な生存の法則なのでした。
『さぶ』の登場人物は、さぶ、栄二、おすえの3人です。この男2、女1の三角関係はこの作家が生まれつきの能力・性格を語るときにしばしば採用するおなじみの設定です。
内気で不器用な男A、陽気で器用な男B、2人のどちらかと結ばれる女C。
・柳橋物語(昭和24年)
庄吉(A)、幸太(B)、おせん(C)
・むかしも今も(昭和24年)
直吉(A)、清次(B)、まき (C)
・将監さまの細みち(昭和31年)
利助(A)、常吉(B)、おひろ(C)
・落葉の隣り(昭和34年)
繁次(A)、参吉(B)、おひさ(C)
『さぶ』に出てくる3人も、これまでの3人と変りません。書き出しを読んでみてください。男2人が両国橋を渡るわずかな間にもう、最初の「さぶ」がAで、あとから追いかけてくる「栄二」がBであることを読者は知らされます。
小雨が靄(もや)のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。
双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の褪せた黒の前掛をしめ、頭から濡れていた。雨と涙とでぐしょぐしょになった顔を、ときどき手の甲でこするため、眼のまわりや頬が黒く斑(まだら)になっている。ずんぐりした軀つきに、顔もまるく、頭が尖っていた。──彼が橋を渡りきったとき、うしろから栄二が追って来た。こっちは痩せたすばしっこそうな軀つきで、おもながな顔の濃い眉と、小さなひき緊った唇が、いかにも賢そうな、そしてきかぬ気の強い性質をあらわしているようにみえた。
うまい書き出しですね。もっとも、話を両国橋からスタートさせるアイディアは、岡本綺堂が『半七捕物帖』シリーズの一篇『金の蝋燭(ろうそく)』で開発したものです。『さぶ』も、あるいは同じく両国橋から始まる藤沢周平の『思い違い』(『橋ものがたり』所収、昭和51年)も岡本綺堂の著作権を拝借しているわけですが、オリジナルの『金の蝋燭』に描かれる両国橋は老朽化して人馬の通行が危険になったので修繕工事の真っ最中という実に殺風景な風景でした(※)。
※市井物の必須アイテムである江戸の風景描写についてひと言──山本周五郎が山梨の大月から東京の王子に出てきたのが明治40年、4歳のとき。明治43年、7歳のとき、荒川の氾濫で横浜に移り、小学校を卒業して木挽町の山本周五郎商店に徒弟として住込み就職したのが大正5年、13歳。江戸の名残りをほぼ消滅させた大正12年の関東大震災が20歳のときで、完全に消滅させた東京大空襲のときは42歳ですから、戦前の東京に残っていた江戸の風景はリアルタイムでしっかり体験してきたことになります。そのせいか、つまり江戸の名残りの風景が当り前の風景として体にしみこんでいたせいか、周五郎はあまり江戸の風景描写に力を入れない作家でした。
一方、藤沢周平が肺結核入院のために東京に出てきたのは昭和28年で、退院は昭和32年。そろそろ日本住宅公団の2DK団地や民間の分譲マンションが売り出されてきた時期です。周平にとっての江戸下町の風景は北斎の描いた『絵本隅田川両岸一覧』や『江戸切絵図』といった資料に自分の想像力を加えて復元したものでしょう。想像力の割合が大きくなるほど、江戸の風景はより美しく描かれていくようです。
さぶと栄二は同じ齢。小さい時分から高級な表具や屏風をつくっている経師屋の芳古堂に奉公していますが、年と共に技量の差は開いていきます。
「おめえはいいな、栄ちゃん」とさぶがいった、
「おめえはもう屏風にかかれる、襖の下張りならいちにんめえだ、ところがおいらときたら、いまだに糊の仕込みだ」
「それも仕事だぜ」
「おら、思うんだが、水の中で袋を揉みながら、ときどき自分がやりきれなくなるよ、はたちにもなってこのざまかって」
「それも仕事だよ、さぶ」と栄二がいった。「表具や経師は糊の出来のよしあしが仕事の仕上りをきめるんだぜ、おめえわかっていねえのか」
「それあそうだが」
「わかってたらぐちをいうなよ」と栄二はいった、「糊の仕込みで日本一になれば、それはそれで立派な職人なんだ、おめえ日本一の糊作りになれよ」
「それあそうなんだが」
ぐずだ、のろまだと小言をあびていつまでたっても下回り(助手)の仕事しか与えられないさぶ。一方、どんどん腕を上げていってついには両替商、綿文の襖の張替えを任されることになった栄二は、綿文の娘の一人から「あたしのことお嫁に貰ってくれないかしら」と言い寄られるくらいに順調な人生です。
栄二がプロの技術者として認められれば認められるほど、さぶの苦悩は深まります。
「和助あにいは店を持った」とさぶは口ごもりながらいった、「栄ちゃんもそのうちに店を持つだろう、けれどおれはだめだ」
「そんな話は帰ってからにしろよ」
「おら、思うんだが」さぶの声はみじめに弱よわしかった、「どうせゆく先に望みがねえんなら、いっそいまのうちに、職を変えるほうがいいんじゃねえだろうか」
「ばかなことをいうな、おめえほど糊の仕込み上手な者はほかにいやあしねえ、親方がいつもそういってるのは自分でも聞いて知ってるじゃねえか」
さぶはちょっと黙っていてからいった、「──栄ちゃんはいつか、糊の仕込みで日本一になれば、それで立派な職人だといってくれた、そのとおりだろう、その場かぎりの慰めじあねえだろうが、糊作りだけじあ自分の店は持てやしねえ、よくいって一生涯、芳古堂の飼いごろしじあねえか」
労働には、当人の視点から言えば表現的労働と経済的労働、企業の視点から言えば基幹労働と補助労働があります。日々の労働がそのまま自己表現や生き甲斐になっていく張合いのある基幹労働と、ただお金をかせぐためだけの単調な補助労働。「一人では生きられない」とは、言ってみれば、この2つの労働の相互扶助を言っているのですね。この世で仕事とよばれるもののほとんどはどちらの労働が欠けても完成しないものばかりだからです。
自分のもって生まれた才能ではどんなに努力しても表現的労働はできないと嘆くさぶに対して、栄二は2人で1人だ、2人で一緒の店を持とう、「おめえの仕込んだ糊でおれが表具でも経師でも、立派な仕事をしてみせる──いつまでも二人でいっしょにやっていって、芳古堂に負けねえ江戸一番の店に仕上げるんだ」と提案します。
『さぶ』が書かれ、読まれていた昭和38年(1963年)はちょうど高度成長が始まった頃です。戦後初めて求人数と求職数が逆転してきた時期。とくに地方の中卒者は金の卵とよばれて、人手不足に悩む東京の商店や町工場に集団就職していた時期でした。中卒者たちにとっては、いずれは自分の店や町工場を持つ夢を支えに、日々の経済的労働を表現的労働に変えることができた時期でした。江戸時代の風景は消滅したが江戸時代の雇用関係は昭和30年代まで残っていた、という言い方をしてもいいかもしれません。
さて、さぶと栄二が23歳になったある日のこと、それまで前途有望に見えた栄二の身に突然、不運が襲いかかってきます。仕事先の綿文の主人の居間から古代箔白地金襴という高価な布片が盗まれ、栄二の道具袋に隠されていることが発覚したのです。
一体、だれが、どんな動機で栄二を落とし入れようとしたのか。『さぶ』はここからミステリー小説の趣きを帯びてきます。まだまだ読者の現実は貧乏だった時代に、貧乏一色の小説を書いていたら読者に敬遠されてしまう、この辺りで読者が先の展開を待ち遠しがるプロットを入れておこう。そんな造物主の策略にふり回される栄二は本当に可哀そうです。あの店の職人は手くせがわるいという評判を立てられては困る芳古堂の主人からは仕事をとり上げられ、ぜひ釈明させてほしいと綿文に行けばお抱えのとび職たちが現われて殴る蹴るの末に門前払いされ……。
思わぬ冤罪をかぶせられた栄二は綿文に火をつけてやる、とび職たちを殺してやると逆上して手がつけられなくなり、とうとう石川島(佃島)の「人足寄場」に送られることになります。
『赤ひげ診療譚』の「小石川養生所」もそうでしたが、「人足寄場」も寛政2年(1790年)につくられた国営のセーフティネットです。犯罪のおそれのある無宿者を収容して、手に職をつけさせ、それらの作業には工賃が支払われて、のちのち出所して正業につく場合の元手にする。職業訓練つきの更生施設といったところでしょうか。
『さぶ』のサブ主題は『赤ひげ診療譚』よりさらに強烈な国営セーフティネットへの渇望です。わが国の文学史上、国営セーフティネットの必要を小説を通してくり返し主張した作家なんて、山本周五郎以外にはいませんから、よく記憶しておいてください。『さぶ』の半分以上のページは石川島の人足寄場で生起する事件で占められています。『さぶ』は職人物に見えて実体は人足寄場物語、いや国営セーフティネット物語なのです。
「ええ、これはね、そもそもこの寄場というものを作った、長谷川平蔵という人の考えでしてね、寄場は牢ではない、人足を罪人扱いしてはならない、というのが代々の役所のきまりなんだということです。(略)ここには公儀から年に米六百俵、金が四百両あまり下されるんです」
「寝て喰べて働いて、病気になれば唯で薬を呉れて、稼いだ賃銀は自分のものになる」、だから一生ここから出たくないという「与平」や「ご一」の辛い半生話を聞いて、「これは飼いごろしだ、おれはまっぴらだ」、でも、「そうだ、さぶにはもってこいだな」と栄二は心の中でつぶやきます。この段階ではまだ明らかにさぶを見くだしていますね。能力に恵まれないさぶの他人に助けてもらうことの重さや悔しさが、ここまで能力に恵まれて他人の助けを必要としないできた栄二にはなかなか理解できません。
そう言えば、山本周五郎の小説に出てくる主人公はいずれもおのれの実感(経験)しか信用しない人間ばかりです。丸山真男が「私達知識人はいろいろな形で庶民コンプレックスを持っているから『庶民の実感』に直面すると、弁慶の泣きどころのように参ってしまう傾向がある」(日本の思想・昭和36年)とこぼしながら名付けた、あの実感信仰型の思考様式が周五郎の造型する人間像の基本になっています。
「──庄さんがお嫁さんと歩いているのを見たとき、あたし軀がずたずたにされるような気持だったの。苦しくって苦しくって息がつけなかった……(略)幸太さん、あなたの言って呉れたことがそのときはじめてわかったのよ。あなたの苦しいと言った気持が、辛かったと言った気持がどんなものだったのか、そのときはじめてわかったのよ」(柳橋物語)
「意見を言うなら、自分で経験し自分でたしかめたことを言え、そうでなかったらわかったようなことを言うな」(大炊介始末)
「言葉が役立つか」「耳や目は騙されやすい、真偽を晦ますことは、さしてむずかしくない」(樅の木は残った)
栄二もまた、自分が濡れぎぬを着せられて、さぶ以下の弱い立場に立たされて初めて、能力に恵まれない人たちの存在の大切さを実感として理解していきます。
「読本でも話でもない、なま身のこの軀で、じかにそういうことを教えられたんだ」(※)
※その後、鎌田慧さんの『自動車絶望工場』(昭和48年)を読んでいたときに、この栄二のセリフを思い出させられました。こんな具合です。
「それまで取材で何度かコンベア労働は“見て”いた。そしてそれに従事している労働者たちの話も聞いた。しかし、ぼくはその時何を理解していたのだろうか。『単調労働』『単純反復作業』などの単語の中に、実際労働している人の、精神的肉体的疲労感が、その絶望的な飢餓感がどれだけ含まれているのか、それは見聞きするだけでは、“理解”できるものではなかった。日々の無限の繰り返しの中でこそ、ようやく、ベルトコンベアの悪を捉えることができるのを、六ヵ月の体験の中で初めて知った」
山本周五郎は実感の真実性を理論の上に置く人でしたが、鶴見俊輔風な折衷主義者である私としては理論の虚構性にも肩をもちます。過去という実感はたしかに明日の教訓になるけれど、実感だけでは明日はつくれませんもの。時代の変化はしばしば実感という経験を無効にしてしまいますもの。
この世には司馬遼太郎の主人公たちのように、未来というフィクション(理論)に賭けてみようぜといった理論信仰型の人間も必要なのです。私をふくむ当時の読者たちが山本周五郎と司馬遼太郎の両方を支持した背景にはそんなバランスの心理が働いていたように思います。山本周五郎は弱者の視点を持っていたが、司馬遼太郎は強者の視点しか持っていなかったからダメみたいな曲解が一部にあるみたいなので、一応注釈しておきます。
こうして栄二の中で、人足寄場は、能力とは関係ない相互扶助の大切さを教えてくれる人生の学校に変っていきます。栄二を気にかけてくれる寄場同心の岡安喜兵衛は小石川養生所の新出去定を思い出させます。国のセーフティネットはこういう人たちがいないと動かなくなるという大切な指摘ですね。
一方、さぶは都合のつくかぎり寄場にやってきて差し入れをしてくれます。体面を気にする芳古堂から寄場には行くなと言われているのですが、聞き入れないためにとうの昔にクビにされています。それでもせっせと日雇いで日銭を稼ぎながら、素知らぬ顔をしてやってくるのです。人づてにそれを知った栄二の内部で、さぶの存在はどんどん大きくなっていきます。そして、絶体絶命の命のピンチに襲われたとき、思わず「さぶ、助けてくれ」と叫びます。一人では生きていけない、さぶがいなければ生きていけないことをついに実感するこのシーンは泣けますよ。
いよいよ放免の日、栄二を引き取りにきたさぶは、仕事場つきの借家を借りて家財道具も揃えたよ、と報告します。芳古堂をクビになって以来、せっせと日稼ぎして貯めたお金で栄二を出迎える準備をしてきたのでした。
「ようやくここまできた」さぶは酒を啜っていった、「そのうちに二人で店を持とうって、いつか栄ちゃんにいわれてから、おら夢にまでみたけれども、それが本当のことになろうとは思わなかった、おらあ いま嬉しいような、おっかねえような心持だよ」
栄二から二人で店をやろうと話しかけられたときは、くびをふって、「だめだ、そう思ってくれるのは有難えが、おら、おめえの重荷になるばかりだ」と言っていた弱気男にもほんの少しですが自信が出てきたようです。栄二を支えてきたことから生まれてきた自信、相互扶助のつくる自信ですね。
人足寄場物語である『さぶ』は栄二を軸として物語が展開していくことから、主人公は栄二だと誤解されがちですが、主人公はやはり題名通りのさぶでしょう。いや、さぶたちと言うべきか。与平を筆頭とする人生につまずいた人足寄場の仲間たちはみんな社会の営みに欠かせないさぶ(サブ)たちです。あるいは栄二が得意先の両替商、綿文に出入りするたびにスケッチされる小僧さん。玄関の敷石に氷が張っている真冬、火の気のない土間で小粒金や小判の入っていた空の麻袋を一日中打ちつづけているために、この小僧の手はしもやけで紫色にはれ、指には血がにじんでいます。麻袋についている極微量の金を溜めているのです。「僅かばかりの金屑をへずるために、小僧一人をこんなふうに使うとは、これだけの大店(おおだな)として恥ずかしくないのかな」と栄二はひそかに腹を立てていましたが、この小僧もまた、形を変えたさぶでした。栄二はこんなさぶたちの引き立て役です。
昭和30年代は上を向いて歩こうの復興期でしたから、さぶの後継者である集団就職組の金の卵たちの中から、その後商店主や町工場の社長になった人たちも沢山いたはずです。ところが今は相互扶助どころか、栄二とさぶの差は正社員と非正社員の差となって、どんどんひろがっていく時代。
能に恵まれた栄二は放っといても正社員として自立していけるでしょう。企業はつねに能のある人を貪欲なまでに求めていますから。問題は、能に恵まれないさぶを企業はどのように守っていけるのかです。そのために私に思いつける知恵といったら、「年功型賃金と終身雇用を尊重する家族主義的経営」しかありません。次回はこの「家族主義的経営」の今日的意味について考えてみます。
そうそう、物語の最後で、栄二に濡れぎぬを着せた意外な犯人の正体が判明しますから、ぜひ『さぶ』を未読の人は読んでみてください。ミステリー小説としても立派に通用する合理的な犯行動機ですから、びっくりの次に納得しますよ。
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「能にめぐまれないさぶを企業はどのように守っていけるのか」。
この問いかけそのものが忘れられてしまっているのが、
昨今の日本の企業社会と言えるのかもしれません。
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