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みんなが大好きなスポーツ!「マガ9」スタッフだってそうです。
だから時々、メディアで報じられているスポーツネタのあれこれに、
突っ込みを入れたくなったり、持論を展開したくなったり・・・。
ということで、「マガ9スポーツコラム」を不定期連載でお届けします。
来年開かれるバンクーバー冬季五輪での注目のひとつは、女子フィギュアスケートの浅田真央とキムヨナの対決だろうが、私にとって、それ以上に惹かれるのがスキーのジャンプ競技である。
初めて見た札幌五輪(1972年)が決定的だった。あのときの70メートル級ジャンプで、笠谷幸生、金野昭次、青地清二の3人が表彰台を独占したのである。ちょうど我が家にカラーテレビが入ったころだった(他の一般家庭よりも遅かったと思う)せいか、いまでも記憶が鮮明に残っている。
その後、五輪における日本のスキージャンプ界は、レークプラシッド(1980年)70メートル級ジャンプでの八木弘和による銀メダル獲得以降、しばらく低迷期に入った。
この間、70メートル級は「ノーマルヒル」、90メートル級は「ラージヒル」と呼ばれるようになった。選手の助走時の体勢も、前方で両手を拝むようなスタイルから、両手を身体の側面に合わせて後ろへ伸ばすものへと変わり、新たな競技として団体ジャンプが加わった。
団体競技はラージヒルを各国の代表4人が2回ずつ飛んで総合点を競うのであるが、リレハンメル五輪(1994年)では日本チームが久々に躍進。金メダルまであと一歩のところまで迫ったが、最終ジャンパー、原田雅彦の大失速により(97m)、銀メダルに終わった。
私はテレビの前で、着地後の原田同様、頭を抱えたが、最も印象深かったのは表彰式での原田の満面の笑顔だった。帰国後、一部メディアなどからバッシングを受けても、原田から笑顔が消えることはなかった。それどころか、長野五輪(1998年)を前にしたNHKのインタビューで、
「長野の空に日の丸7つ上げますよー」
ノーマルヒルで金銀銅、ラージヒルで金銀銅、団体は金の計7つのメダルを日本人選手が取るんだとにこにこしながら言うのである。
結果はそのとおりとはならなかったが、長野では、大飛行と失速を繰り返し、私たちを驚愕、感歎、嘆息、失笑させる「原田劇場」を見せてくれた。とりわけラージヒル個人の2本目。向かい風を全身で包み込むように、彼はふわりと空に舞い上がった。当時の日本のエース、船木和喜のスキーと身体が並行になって風を引き裂くように飛ぶフォームとは対照的に、距離よりも高さを求めるかのような、着地を失敗して両足を複雑骨折しかねないリスクを背負って、原田は137mの大ジャンプを果たしたのである(結果は、船木が金メダル、原田が銅メダルだった)。
「(スキージャンプは)屋根がついてないからねえ」と原田がテレビのインタビュアーにこぼしたのは、ラージヒル団体の1本目のジャンプの後である。彼は吹雪で満足に前を見ることもできないような状態で飛ばざるをえなかった(結果は80m以下)。
風はあるか、ないか。あれば、向かい風か、追い風か。雪は降っているか。降っていれば、それは粉雪か、湿ったものか……。スキージャンプほど、天候に左右される競技はない。自然を味方にしないと、絶対に勝てないスポーツである。
原田はあるときこんなことも語っている。
「スキージャンプができる人間は限られていますから」
いかに優れたアスリートといえども、助走距離90mのジャンプ台から地上に向けて飛ぶのは至難の業だろう。
リレハンメルでは、うなだれた原田を他国の選手が慰めようとしていた。自然に愛されることの難しさ、そして常人には体験できない世界を知る者だけがもつ連帯感ゆえだったのではないか。
皆さん、いろいろ批判しますけど、スキー板2枚だけで、100mを超える距離、飛んだことあります?――原田の邪気のない笑顔からは、プライドに満ちた声が聞こえてきそうだ。
きたるバンクーバーでは、リレハンメルで原田とともに飛んだ葛西紀明、岡部孝信、そして長いスランプから脱した船木和喜らが代表の座を狙っている。 鳥人たちのプライドを見るのが楽しみだ。
(芳地隆之)
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