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柴田鉄治のメディア時評(10年01月27日号)

その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、
ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。

しばた てつじ 1935年生まれ。東京大学理学部卒業後、59年に朝日新聞に入社し、東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。大学では地球物理を専攻し、南極観測にもたびたび同行して、「国境のない、武器のない、パスポートの要らない南極」を理想と掲げ、「南極と平和」をテーマにした講演活動も行っている。著書に『科学事件』(岩波新書)、『新聞記者という仕事』、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。

『組織ジャーナリズムの敗北 続・NHKと朝日新聞』 (岩波書店))

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小沢問題、メディアは検察と適正な距離を保て

 民主党の『最高実力者』、小沢一郎幹事長の政治資金規正法違反事件をめぐって、日本の社会が『沸騰』している。東京地検特捜部の捜査が、「政治とカネ」の黒い疑惑を暴き出す社会正義の実現なのか、あるいは、民主党政権つぶしを狙った極めて政治的な『国策捜査』の一環なのか――。過去のどんな政界汚職事件でも必ず出てくる議論ではあるが、今回ほど激しい対立は珍しいといえよう。
 その原因というか背景としては、歴史的な政権交代があり、圧勝した民主党政権が力任せに従来の慣行を改めようとしていること、その権力が小沢氏に集中しているようにみえること、などが挙げられよう。それに、近年、「国策捜査」と批判されてもしかたのないような事例が増えてきたこととも重なり合って、議論の沸騰に輪をかけたようだ。
 このため、メディアの報じ方も「小沢vs検察」といった対決を強調するような取り上げ方が多く、論評にも「検察の狂気」といった激しい見出しが飛び交うような騒ぎになっている。さらに鳩山首相が小沢幹事長に「戦ってください」といった言葉まで、「すわ、指揮権の発動か」といった騒ぎになるのだから、異常な空気だといえよう。
 確かに、不逮捕特権をもつ国会議員の逮捕には極めて慎重だった検察が、今回は、国会開会直前に石川知裕議員を逮捕するなど、従来とは違う様相がある。とはいえ、現時点で「検察のやりすぎ」と断じるのも早すぎるし、また、「総じてメディアは検察寄りすぎる」という批判も早すぎるだろう。

 いまの時点でメディアに言うべきことは、できるだけ冷静に、読者・視聴者が判断できるような材料を提供してほしい、ということに尽きよう。ただ、現時点でもすべてのメディアに対して明確にいえる批判がある。
 それは、昨年、裁判員制度がスタートするとき、各メディアは犯罪報道のあり方を見直す必要があることを認め、新たな報道基準などを設定した、その基準を小沢問題では守っていないということである。
 その基準とは、ひと言でいえば「できる限り情報源を明確にする」という方向であり、小沢問題では検察が情報源であることは明白なのに、そのことを隠して「関係者によると」などとぼかして報じていることだ。

 犯罪報道のあり方をめぐっては、これまでにも何回か見直しがおこなわれ、そのたびに少しずつではあるが改善されてきた。しかし、「容疑者を犯人視してしまう」という基本的な欠陥はなかなか改められず、メディアの目線が警察や検察と同じになってしまう弊害がかねてから指摘されてきた。
 報道の仕方の具体的な欠点としては、警察のみている容疑内容だけでなく、記者の取材内容、目撃者の話や近所の評判、あるいは関係者の推測や記者自身の憶測まで、すべてを「調べによれば」のなかに詰め込んでしまう報道のやり方が問われてきたのである。
 そうした犯罪報道が裁判員に予断を与えることになってはならないという観点から、情報源をできるだけ明確にすることが定められたわけだが、それがさっぱり守られていないのだ。それには、検察とメディア、とくに特捜部とメディアのこれまでの特別な関係が尾を引いているようである。

 検察は、警察に比べると情報の管理がひときわ厳しく、なかでも政界汚職事件などを捜査する特捜部は、情報源が推測されるような記事の書き方をすると、その記者を「出入り禁止」にするような措置を繰り返してきた歴史がある。メディアのほうもそうして検察の報復を怖れて、必要以上に卑屈になってきた習慣がなかなか取れないのだ。
 ましてや、今回の小沢問題のような『対決型』の展開では、検察側のリークだと見られたくないという検察側の思いがひときわ強いため、情報源をいっそうあいまいにした形の報道があふれかえったのである。
 もともと情報源をあいまいにした報道は、ジャーナリズムの基本に反するものなのだ。日本のメディアは、欧米にくらべてその点が極めてルーズで、内部告発者などを守るための「取材源の秘匿」を勝手に拡大解釈して、いい加減な報道を正当化するための武器に使っているようなところさえある。

 今回の騒ぎの中で、原口総務相が「関係者によると」では、捜査側の関係者か被疑者の関係者か分からないではないか、と報道を批判したことは、たまたま総務省が放送の監督官庁だったために「報道への介入だ」と批判されたが、その報道批判そのものは的を射たものだったといっていい。
 メディアの役割は本来、権力の監視である。地検特捜部も権力のチェックという役割を担っているので、ともすると一体化しがちな面もあるが、検察も強大な権力の一部であり、メディアはそこにも常に批判の目を注いでいなくてはならない。
 そういう観点からみれば、メディアは特捜部の「出入り禁止」の脅しなどに屈することなく、検察情報であるならそのことをしっかりと報じるべきだろう。小沢問題も明らかに犯罪報道の一つなのだから、情報源を明確にするという新基準を守るべきなのだ。
 それなのに、民主党政権が検察を刺激することを怖れて「取調べを可視化しよう」という法案の提出を見合わせようと言い出したことに、メディアまで同調しているように見えるのはどうしたことか。

 昨年、足利事件、布川事件と相次いで冤罪事件が明るみに出て、「司法の劣化」が問題になっているなか、裁判員制度に続く司法改革まで後退させてしまうようなことがあったら、どうしようもない。
 メディアは、小沢幹事長の「剛腕」にも目を光らせると同時に、検察の「剛腕」にも目を光らせる必要があるのである。メディアは検察に対して適正な距離を保て、とあらためて言っておきたい。

 ところで、前回のメディア時評で、普天間問題に対する日本のメディアの「米国一辺倒ぶり」にあきれたことを記したが、鳩山政権がメディアの大合唱にも動ぜず、「5月までに」と期限付きで先延ばしするや、朝日新聞の論調も一転、社説は「本気で『県外』探ってみよ」と変わった。

 「鳩山政権の無策、混迷はいつまで続くのか」と鳩山首相を叱りつけた社説からわずか2週間後のことである。日本のリーディング・ペーパーと自認する朝日新聞のこの迷走ぶりには、ただただ驚くほかない。

連日、刺激的な見出しが目につく一連の「小沢事件」。
事実はどこにあるのか、問題は何なのか。
今こそ冷静で綿密な報道が求められる、はずなのですが…。
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