2009年スタートの新連載は、「柴田鉄治のメディア時評」です。
その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、
ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。
しばた てつじ 1935年生まれ。東京大学理学部卒業後、59年に朝日新聞に入社し、東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。大学では地球物理を専攻し、南極観測にもたびたび同行して、「国境のない、武器のない、パスポートの要らない南極」を理想と掲げ、「南極と平和」をテーマにした講演活動も行っている。著書に『科学事件』(岩波新書)、『新聞記者という仕事』、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。
このところメディアの大誤報、いや大虚報が相次ぎ、メディアに対する読者・視聴者の信頼感がガタ落ちになっている。一つは、日本テレビの「真相報道バンキシャ!」事件、もう一つは週刊新潮の「朝日新聞襲撃犯の告白」報道だ。
日本テレビの虚報は、人気番組「真相報道バンキシャ!」のなかで報じられた「岐阜県庁の裏金の証言」がまったくのでっち上げだったというものである。この事件の責任をとって日本テレビの社長が退任したが、その退任会見がまた、すべての事実を明らかにしようとしない誠実さを欠いた内容で、いっそう評価を落とした。この事件はいま、BPO(放送倫理・番組向上機構)が調査に乗り出しており、やがてその調査結果が報告されるだろうが、これまでに分かっただけでも、「こんなずさんな番組作りをやっているのか」とあきれるような実態が浮かび上がっている。
まず、テレビ局は番組作りを下請けの制作会社に丸投げする。下請け会社はさらに、事件の証言者を謝礼つきで募集する「ネットを使った情報集め」まで活用し、応募してきた証言者を顔だけぼかして画面に登場させる、というのだ。現に「真相報道バンキシャ!」に登場した証言者は、それまでにもあちこちのテレビ局に出演しており、日本テレビにも2回目の登場だったというのである。こんな番組作りが許されていいのだろうか。
週刊新潮の虚報は、もっとひどいケースだといえるかもしれない。すでに時効になっている朝日新聞阪神支局の記者殺傷事件について「私がやった」と名乗り出た人の告白手記を4週にわたって連載した記事が、すべて嘘だったというのである。その人物は、週刊新潮に連絡する前に朝日新聞にも「私がやった」と申し出て、朝日新聞記者がその告白を聞いて嘘だと判断していたのだ。その事実を週刊新潮も知っていたのに、十分な調査を怠って4回も載せてしまったのである。
週刊新潮は、4月23日号で、10ページにわたる編集長の釈明の手記を載せたが、それを読んで唖然とした。全編これ「週刊新潮は騙された被害者だ」というトーンなのである。もちろん結果として間違いだったことは認め、謝罪もしているのだが、「証言を手記にする際、『一点の捏造もなかった』ことは明記しておきたい。証言者のいない『架空手記』を掲載したわけでも、ありもしない証言内容を『捏造』したわけでもない」と強調し、さらには「週刊誌の使命は、真偽のはっきりしない段階にある『事象』や『疑惑』にまで踏み込んで報道することにある」とまで、開き直っているのである。これでは、週刊誌の報道だけでなく、すべてのメディアの報道に対して、読者や視聴者の信頼感はますます落ちる一方だろう。
私が新聞記者になったばかりのころ、ということは50年も前の話だが、先輩記者からよく「天丼自供には気をつけろよ」と注意されたものだ。世間の注目を浴びた事件があると、「私が犯人です」と新聞社の支局に名乗り出てくる人があり、話を聞いているうちに食事時間になると「では、天丼でもとって…」となり、食べ終わると「実は嘘でした」と言い出す。
食糧難時代の無銭飲食詐欺の一種で、この程度の『被害』にはいちいち目くじらを立てることもないが、時には本物の犯人の場合もあるので、聴き取りに手は抜けない。そして、もちろん最終的に犯人と報じるときには警察の判断も聞くことはいうまでもない。
週刊新潮の場合、手記の原稿料として90万円を支払ったそうだから、『天丼被害』どころの騒ぎではないが、週刊新潮は、最終的な真偽の判断に告白内容を警察にあてることさえしなかったのだろうか。
確かに報道から誤報や虚報を100%なくすことは不可能だが、メディアへの信頼感が保たれるかどうかは、誤報や虚報が起こったとき、それに対する対応のしかたにかかっているとさえいえよう。戦後のメディアの歴史のなかで、いまほどメディアに対する信頼感が失われたことはないのではあるまいか。
話は変わるが、北朝鮮のミサイル発射事件や、SMAPの草彅剛のハダカ事件をめぐる日本のメディアの大騒ぎぶりは、一体どうしたことだろう。北朝鮮の「衛星打ち上げ」と称するミサイルの発射に、身の危険を感じた国民なんて誰もいないのに、戦争が始まるかのような騒ぎであり、草彅剛にいたっては酔ってハメをはずしただけのことなのに、天下がひっくり返ったかのような騒ぎである。誤報や虚報とは、まったく次元の違う事柄ではあるが、ここにもメディアに対する信頼感の喪失をもたらす一端があるように思えてならない。
もう一つ、メディアへの信頼感喪失ともからむ重大な意見書の発表が、4月28日、BPO(放送倫理・番組向上機構)の放送倫理検証委員会からあったので、大急ぎでつけ加えたい。
同委は、NHKが2001年に放送した「問われる戦時性暴力」の番組が放送直前に改変された問題に対して「幹部管理職らが安全を優先して企画趣旨から逸脱し、当然目指すべき室の追求という番組制作の大前提をないがしろにしたもの」と断じ、「公共放送に最も重要な自主・自立を危うくする行為。いまも繰り返されうる、現在の課題だ」と指摘したのである。
この問題は、05年に朝日新聞が「安倍晋三氏ら政治家の介入があった」と報じたことで、NHKと朝日新聞の『大喧嘩』に発展したことで知られ、BPOが今年の1月から審議してきた。
意見書では、「放送総局長や番組制作局長が何の躊躇も見せず、政治家から意見を聞いていること自体に違和感を抱く。また、国会担当局長が何の躊躇も障壁もなく放送・制作部門に出入りし、改変に直接関与している様子にも危うさを感じないわけにはいかない」と述べて、「国会対策部門と放送・制作部門には、明確な任務分担と組織的な分離がなされていなければならない」と指摘しているのだ。
この意見書に対するNHKの反応を聞いて、がっかりした。NHKは談話を発表して「政治的圧力で改変されたり、国会議員の意図を忖度したりした事実はない。今回の評価は残念。放送倫理の観点から番組の質を論じることに強い違和感を覚える」というのである。
NHKには、反省の姿勢も、BPOの意見書から教訓を汲み取ろうという姿勢も、まったく感じられない。これでは、視聴者の信頼感も落ちる一方だろう。
マスメディアの大誤報ではなく、大虚報が続いた4月。
記者や制作者のモラル、責任感は、いったいどうなっているのか?
「面白ければいい」の時代は、とっくに終わっています。
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