2009年スタートの新連載は、「柴田鉄治のメディア時評」です。
その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、
ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。
しばた てつじ 1935年生まれ。東京大学理学部卒業後、59年に朝日新聞に入社し、東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。大学では地球物理を専攻し、南極観測にもたびたび同行して、「国境のない、武器のない、パスポートの要らない南極」を理想と掲げ、「南極と平和」をテーマにした講演活動も行っている。著書に『科学事件』(岩波新書)、『新聞記者という仕事』、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。
今月は、メディアに関して論じるべき事件がいろいろとあった。沖縄返還時の日米密約を問う裁判をはじめ、週刊新潮による『朝日新聞襲撃犯報道』、日本テレビの「バンキシャ」番組『虚報』事件、自衛艦のソマリア沖派遣問題など、どれも論ずべきテーマなのだが、なにをおいても民主党の小沢一郎党首の公設第1秘書逮捕事件を取り上げないわけにはいかない。他の問題は、あとで機を見て論じることにして、今回はこの問題に焦点を合わせよう。
西松建設からの多額の献金を迂回経路と知りながら受け取ったとして、小沢氏の公設第1秘書が政治資金規正法違反で東京地検特捜部に逮捕された事件は、総選挙も間近い時期に、しかも政権交代が取りざたされている微妙な時期での摘発だけに、政界だけでなく各方面に大変な衝撃を与えた。
まず、民主党などから出てきた反応は、「これは政権交代つぶしの国策捜査ではないか」という強い批判だった。他の野党からも同調する意見が多く、「自民党の議員も大勢、献金を受けているのに」とか「一種の形式犯での逮捕は異例な対応だ」といった声まで上がった。
こうした空気をうけて当の小沢氏も最初の釈明会見では「やましいことはまったくない」と強気一点張りで、「極めて政治的な国策捜査だ」と真っ向から検察を批判した。
これに対して検察側の反応は、公式にはなにも言わなかったが、各メディアに対するリークの形で「形式犯なんてものではない」「小沢氏は額が違う」「こんな迂回献金を認めていたら政治資金規正法は有名無実になる」といった報道が次々となされた。
野党第一党の党首を狙い撃ちにした捜査が「国策捜査」であったかどうかという問題は、簡単に結論が出せる問題ではない。検察は常に「政治的な存在」であることはいうまでもなく、また、これまでには国策捜査と批判されてもしかたのない事件も少なくなかった。
しかし、検察側に言わせれば、「政治的な影響を考えて犯罪を見逃していいのか」という反論が常にある。いわゆる「悪いことは悪い」という分かりやすい論理である。
今回の強制捜査が国策捜査かどうかは、もうしばらく今後の推移を見守るほかない。それとは別に、今回の微妙な時期での強制捜査について検察に説明責任があるのか、ないのか、という問題も浮上した。コロンビア大学のジェラルド・カーチス教授が3月12日の朝日新聞の「私の視点」欄で「ある」と主張したのに対して、元・特捜部検事の堀田力氏が3月20日の同欄で「ない」論を展開した。
この論争に関していえば、カーチス教授の「検察は記者会見をして説明できることは説明し、話せないことは話せないといえばいい。肝心なことは、国家権力を行使する機関の姿が国民に見えることだ」という言い分のほうに説得力があるだろう。検察の言い分がいつも非公式なリークに頼っている姿は、健全ではない。
カーチス教授は、検察批判だけでなく、マスメディアに対しても「なぜ検察の説明責任を求める声がもっと強く出てこないのか」と批判し、「朝日新聞は3月10日『民主党、この不信にどう答える』と題した社説を掲げたが、どうして『検察、この不信にどう答える』と問いかけないのか」と論じている。この点も私はその通りだと思う。
前置きが長くなったが、今回の事件でメディア時評として最も重要なテーマは、実は、その後に起こった「政府高官発言」問題ではなかろうか。
これは、元警察庁長官の漆間・内閣官房副長官が記者団との『背景説明会見』で、「検察の捜査は自民党には及ばない」と発言したという問題である。
『背景説明会見』というのは、通常『オフレコ記者懇談会』などとも呼ばれるが、オフレコではなく、内容は報道できる会見で、ただ、発言者の名前だけは伏せて『政府高官』といった形で報じられるものだ。この方式は日本だけのものではなく、欧米諸国でも『バックグラウンド・ブリーフィング』などと呼ばれてしばしば行われている。
今回もその慣例にしたがって政府高官の発言として報じられたわけだが、内容が内容だけに「これこそ国策捜査だったことを示す発言だ」と民主党などが問題にし、大騒ぎとなった。それには政府・自民党も動揺して、河村官房長官が「政府高官とは漆間氏である」と明かし、「本人に釈明させる」と発表したのである。
こうして実現した記者会見で、漆間氏は「そのような発言をしたことは記憶にない」と言明したのだ。しかも、同席した秘書官ら3人もそう言っているとつけ加えた。
これには、メディア側がびっくりした。背景説明会見に参加した十数人の記者が聞き、そろって報じた内容が真っ向から否定されたのだから、あわてたのも無理はない。「確かに聞いた」と報じなおしたメディアもあれば、どのメディアがどう報じたか、一覧表にして掲載した新聞まであったほどである。
メディアにとって、これほどの不信感はめったにない。新聞でもテレビでも、記者が聞いたことを事実だと報じているわけだから、それが「事実ではない。記者が勝手にでっち上げた話なのだ」といわれては、メディアは成り立たない。根底から存在を全否定されたようなものなのだ。
当然、メディアはこぞって総反撃に出るかと思ったら、そうではなかった。当の内閣記者会も、あるいは新聞、テレビの総本山である新聞協会も、抗議声明ひとつ出していないのである。
いや、抗議しようという話は出たが、足並みがそろわなかったらしい。まず、産経新聞が反対したようだ。産経新聞も同じように報じた新聞の一つではあったが、あとの対応が「メディアの側に非があった」というのである。
産経新聞は3月11日の自らの紙面に「漆間発言とメディア」と題する論文を掲げ、「取材源、安易に暴露していいのか」という主張を展開した。それによると、官房長官が漆間氏の名前を発表する前に、朝日新聞が「発言の高官 民主、漆間氏とみて追及」と報じたのは、民主党の見方に転嫁する格好で約束を破ったもので、「取材源の秘匿」の原則を守らないメディアの自殺行為だというのだ。
一見、もっともなように見えて、この産経新聞の主張は、根底が間違っているのではないか。メディアが守るべき取材源の秘匿というのは、不正を暴く内部告発者などの場合であって、このケースはまったく違う。産経新聞も論文の中で、米ワシントンポスト紙がウォーターゲート事件の取材源を本人が名乗り出るまで30年間も守り通したケースを挙げているが、この例では論旨が合わなくなってしまうのだ。
この産経新聞と朝日新聞の対立に、読売・毎日新聞が加わって、漆間発言をめぐる「産経・読売vs朝日・毎日」戦争と週刊新潮が報じたが、こんな新聞の根幹に関わる問題でも新聞界が一致団結できない現状を象徴する事件だといえよう。
こんな状況で、マスメディアの最大の使命である「権力の監視」ができるのであろうか。なんとも情けない日本のメディア界だと慨嘆するほかない。
(以上)
メディアと権力との関係のあり方を、
改めて問いかける形になった漆間氏の発言。
このまま、目立った抗議の声もないままに、
問題は収束してしまうのでしょうか?
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