本書は「桜の園」「三人姉妹」など、ロシア帝政末期の貴族の悲哀を描いた劇作家として世界的に有名なチェーホフのルポルタージュである。長らく品切れ状態が続いていたが、村上春樹氏の新作「1Q84」で取り上げられたおかげで、重版がかかったという。再びこの名作が廉価で入手できるようになったのは、喜ばしい限りである。
チェーホフが最果ての地に赴いたことに、確固たる理由があったわけではない。彼にはふらっとどこかへ旅に出てしまう癖もあった。サハリン行きの名目は雑誌「新時代」にサハリン・ルポを掲載するためである。モスクワ・ヤロスラヴリ駅発の夜行列車に乗り込んだのは1890年4月19日の夜。このときチェーホフは30才だった。
船や馬車を乗り継ぎながら、シベリアを踏破し、チェーホフが「数人の上級船客、1人の士官に率いられた300名ほどの兵士、数人の囚人、そして長い辮髪を垂らした給仕の中国人」らを乗せた汽船でサハリンに到着したとき、すでに出発から3カ月が過ぎていた。ようやく現地調査の開始である。
サハリンの住民の多くは流刑囚だ。彼らには足枷をはめられることも、護衛兵がつくこともない。この島に連行された囚人は当初、容易に監視所を抜け出せることに驚く。しかし、サハリンと大陸を隔てるタタール海峡に出るまでには密林、熊、酷寒の吹雪などが待ち構えている。運よく海岸へ出て、大陸にたどり着いたとしても、そこからモスクワやペテルブルグまでは1万キロメートル近くの距離がある。こうして囚人たちを諦めが支配していく。
ロシア政府はサハリンを自国の領土とするため、そこを単なる「島流し先」ではなく、農業を興して「植民地」にしようと考えていた。そのため囚人だけでなく、自由移民も奨励したのだが、やってくる人間は長年シベリアを放浪していた詐欺師、砂金の密売人、思想犯などで、開拓精神に燃えた人間はほとんどいない。農民が土地に根づかなければ、そこでは急激に東方に向けて膨張した国家のいびつな姿ばかりが目立つ。
ただし、チェーホフの人々に向けるまなざしには、彼が後に発表する戯曲同様、優しさがある。また、看守や囚人たちへの聞き書きを通して得たデータが8000枚近くのカードになるなど、彼の几帳面なところも感じられる。
チェーホフは南部の町、コルサコフにある日本領事館も訪ねた。そこで出会った久世総領事、杉山と鈴木という書記官との交流から、チェーホフは日本訪問も考えたが、久世は、日本ではいまコレラが流行っているからと訪日を勧めなかった。
もし、チェーホフが日本に足を伸ばしていたら、どんな紀行文を残しただろう――そんな想像をして、わくわくするのも、チェーホフの残した唯一のルポルタージュが、高い完成度をもっているからである。
(芳地隆之)
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