野中広務氏の人生については、魚住昭著『野中広務 差別と権力』(講談社文庫)に詳しい。同書では、京都・園部の被差別部落に生まれた野中氏が、政界に進出し、権力の中枢にのし上がり、やがて引退するまでの姿が詳細に描かれている。本書では、その野中氏に、辛淑玉さんが在日コリアンの視点から、ときに厳しい質問を投げかける。刺激的な対談だ。
戦争が終わり、召集前の職場に戻った野中氏は、身内のように可愛がっていた人物から、思いも寄らない差別の言葉を聞いてしまう。これをきっかけに野中氏は、職場を辞め、政治家を志す。彼の上司は「そんなことを言う奴を辞めさせる」と言って引き止めようとしたが、野中氏は固辞した。
「『野中さんは部落の人だ』と言うたばっかりにあの人はクビになった、『怖いねえ』という差別の再生産が生まれる」。それは避けなくてはならないと考えたからだ。
問題を根本的に解決するにはどうしたらよいか。政治家・野中は常にそれを念頭に動いてきた。園部町長のときに、被差別部落の土建業者が優先的に公共事業を受注する慣習を是正させたのはその一例だろう。部落の業者に優先して仕事を回せば、周囲の人々の差別意識を助長させてしまうとの判断である。
内閣官房長官のときには国旗国歌法案を成立させた。広島の世羅高校の校長が、卒業式における国旗掲揚と国歌斉唱の賛成派と反対派の対立に挟まれて自殺してしまうという事件が、野中氏に「これ以上、犠牲者を出してはいけない」と思わせ、日の丸・君が代を国旗・国歌に制定するという法案の法制化へと向かわせたのだった。
法案が成立した際、「これを強制してはいけない」と野中氏自身、強く訴えたが、全国の学校では反対意見を封じこめる空気が支配的となった。辛さんのいう「全体としてはいい法令であっても、もうひとつ危険なトゲを法案に入れる」野中的政治手法の限界ともいえるが、日本の侵略戦争の過去を反省したうえで、アジアの指導者と正面から向き合う姿勢は特筆すべきだろう。
中国の胡錦濤主席には、戦後、中国が日本に国家賠償を求めなかったお礼を伝えると同時に、同主席から日本からの中国向けODA(政府開発援助)に対する感謝の言葉を引き出した。平壌を訪問しての北朝鮮・労働党幹部との会合では「IAEA(国際原子力機関)の核査察を受け入れろ」と主張して譲らず、相手を激昂させるが、交渉の最後には「あなたは絶対的に友好でない人だから。これからも何回もきなさい」と言われ、何度も議論を重ねた。
相手は野中氏が肝の据わった人間であることを感じ取るのだろう。アジア外交で発揮した交渉能力は、日本の政治家のなかでも抜きん出ていたと思う。
本書では、辛淑玉さんの直截なつっこみのおかげで、野中氏の懐の深さも読者に伝わってくる。対談の最後で、気丈夫な辛さんが自分の心情をぽろりと吐露するところなどは、2人の送ってきた人生の深さに、思わず居住まいを正したくなった。
(芳地隆之)
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