ベルリンでユダヤ人劇作家の芝居を見たことがある。舞台は20世紀初頭のウィーン。画家になる夢を果たせず、挫折感に打ちひしがれた若きアドルフ・ヒトラーが登場し、貧民街に住むユダヤ人に慰め、励まされるシーンがあるのだが、そこに「ヒトラーがユダヤ人の選民思想に刺激を受けたのではないか」という作者の解釈を見て、思わずうなってしまった。
本作品「わが教え子、ヒトラー」を見たとき、私は当時のことを思い出した。
ナチスドイツの敗戦が濃厚になった1944年末、ベルリン郊外のザクセンハウゼン収容所で強制労働に就かされていたユダヤ人の舞台俳優、アドルフ・グリュンバウムがヒトラーの総統官邸に呼ばれる。意気消沈した独裁者に、近くベルリンで計画されている演説の指導をするためだ。命令の主はナチスドイツの啓蒙宣伝相、ヨゼフ・ゲッベルス。ヒトラーの側近たちは「ユダヤ人の元俳優などとんでもない」と反発するが、かつてグリュンバウムの舞台を見たことのあるゲッベルスは彼の実力を高く評価していた。
実際にゲッベルスの芸術を見る目は確かだった。彼は「メトロポリス」というSF映画の先駆的作品をつくったユダヤ人監督、フリッツ・ラングにナチスのプロパガンダ映画をつくらせようとしたこともある(結局、ラングはハリウッドに亡命したが)。
ゲッベルスが最も期待したのは、忌み嫌うユダヤ人の指導を受けることによって、総統が強烈な負のエネルギーを沸きあがらせることだった。ところがヒトラーはグリュンバウムから演技指導を受ける過程で、幼少のころより引きずっているトラウマを吐露する。それは「独裁者の歪んだサディズムがどこから来たのか」の理由の一端を示すものだった。そして2人のやりとりを見たゲッベルスは、新たな策略を思いつくのだが――。
この映画はナチズムの非道を告発するのでも、ヒトラーを徹底的におちょくるのでもない。ユダヤ人監督、ダニー・レヴィのブラックユーモアは、観客をこれまで描かれてきたホロコーストの世界とは別の次元に連れていこうとしているかのようだ。
主人公のアドルフ・グリュンバウム教授役のウルリヒ・ミューエは『善き人のためのソナタ』で、盗聴相手にシンパシーを抱く秘密警察の大尉を演じた。この映画でも無表情を強いられる人物を見事に体現しているが、ミューエはこの映画が完成した2007年にがんで亡くなった。享年54歳。次はどんな役を演じてくれるのか。そんな期待を抱かせてくれる稀有な俳優の一人だっただけに、惜しまれる早世だった。
(芳地隆之)
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