大平正芳は私の母校(香川県の旧制三豊中学=現観音寺第一高校)の先輩に当たる。彼の訃報を聞いたのは高校3年生のときだったが、当時は国会で「アー、ウー」と歯切れの悪い答弁をする冴えない総理大臣という印象が強かった。
私の父は熱心な社会党支持者だったが、大平正芳には好意を寄せていた。それは、大平と同じく香川県西部の裕福ではない農家に育った(大平より24歳年下だが)という親近感だけではなさそうだった。
著者は大平正芳を「含羞」の保守政治家と表現する。大平は常に「政治は何をなすべきか 何をしてはならないか」を意識していた。権力の行使には謙虚であろうとする彼の姿勢は、青年時代にキリスト教の洗礼を受けたことと無関係ではあるまい。彼は「人間というものは、そんなに立派な存在ではありません」と語っている。
福田赳夫との激しい総裁選を経て、総理大臣の座を掴んでからは、苦難の連続だった。内政では、国民に不人気な増税(一般消費税の導入)の必要性を主張し、衆院選で敗北。外交では、ソ連軍のアフガニスタン侵攻による米ソ対立の先鋭化で、1980年のモスクワオリンピックのボイコットを決断した。
大平はライシャワー駐日大使やカーター大統領との親交が深く、日米関係に「同盟国」という言葉を初めて使った政治家としても知られる。その一方で「アメリカもソ連も愚かな国ではない。ソ連はあの国を守るために多くの血を流した。そのことを民族は忘れていない。ソ連は侵略的な国というが、私はそうは思わない。ただ自己防衛の非常に発達した国ということはいえる」という冷静な目も持ち合わせていた。
大平は軽武装経済主義を貫いた。自民党の党是である憲法改定には極めて慎重だった。大蔵官僚時代にまとめた、上からの統制をやめ「国家自体の商人化」を図るという考えは、福田や中曽根康弘らの思想信条とは相容れないものだったようだが、大平には、リーダーシップの名の下、政府に引っ張られて唯々諾々とついていくような国民はたいしたことを成し遂げられないとの確信があった。
「小さな政府」を主張する昨今の政治家には、これだけの政治信念と国民への信頼をもった上で語っていただきたい。大平が「政治に満点を求めてはいけない。60点であればよい」と言えたのは、政治家の役割を明確に自覚していたからだろう。
現在の政権与党から健全な保守思想が失われて久しい。本書を読んで、そのことを改めて思い知らされた。
(芳地隆之)
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