冒頭、ニューヨークの空撮シーン。ただならぬ物語の予感にぞくぞくする。
自由の女神、港に注ぐハドソン川、マンハッタン島、ヤンキースタジアムなど、カメラは上空をゆっくり大きく旋回しながら、この映画の舞台となるブロンクスに下りてくる。
いまから約30年前のニューヨーク。金融危機以降、私たちが連日テレビで見せられているウォール街とは風景も空気も違う。プアホワイト、黒人、移民らが住むアパートの壁は表面が崩れ落ち、廊下にはごみが散乱。どんな犯罪が起こっても不思議ではないようなところだ。
そのアパートの一室にグロリアという前科持ちの中年女性が猫と暮らしている。その日、彼女はプエルトリコ人家庭のドアをノックした。コーヒーを一杯入れてもらい、世間話でもするつもりだった。ところが、いきなり、その家の息子、フィルを預けられてしまう。
プエルトリコ一家の父親は、マフィアの金庫番でありながら金を横領し、しかも組織の情報をFBIとCIAに流したため、いままさに家族もろとも組織から抹殺される運命にあった。「せめて息子だけでも」。彼はわが子の命を隣人に託したのである。
子供嫌いのグロリアと、6才にしてはませたプエルトリカン少年との逃避行が始まった。
手にはボストンバッグとフィル、足にはパンプス、ハンドバッグにはピストルを忍ばせ、グロリアはバス、イエローキャブ、地下鉄とあらゆる交通手段を使って、追っ手から逃げる。だが、中年女性と少年のコンビが逃げ切れるわけがない。グロリアは、組織を取りまとめるかつての愛人、トニのもとに出向くが、トニは「見せしめのためにフィルを殺す。それがこの世界のルール」とグロリアの願いを聞き入れようとはしない。そして、フィルを引き渡そうとしない彼女の命も奪おうとする――。
映画は絶妙な緩急のリズムをもって、私たちの目を画面に釘付けにする。マイノリティばかりが登場するニューヨークの裏町を、私たちもグロリアとともに走る。
グロリア扮するジーナ・ローランズの表情、ファッション、しぐさ。彼女が佇むだけで、スクリーンはしまる。これをオーラというのだろうか。地下鉄ホームで、ローランズがマフィアの手下にピストルを向け啖呵を切るシーンには、思わず鳥肌が立った。
1990年代末には女優シャロン・ストーンたっての希望で、ストーン版リメイクが完成した。しかし、結果はジーナ・ローランズと、彼女の夫であるジョン・カサヴェテス監督の手腕を際立たせることになった。
(芳地隆之)
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