何者かを演じる俳優という職業が、この作品のなかでは、ときに誇りの、ときに蔑みの対象となる。
主人公、ヘンドリク・ヘーフゲンは野心に満ちた俳優だ。ハンブルクで革命演劇を志していたところを、ベルリンのドイツ国立劇場より声がかかり、彼は劇場総監督にまで上りつめる。しかし、へーフゲンが演劇界でのキャリアを積んでいく過程は、ヒトラー率いるナチスが台頭する1930年代と重なっていた。
ゲーテの「ファウスト」で、悪魔のメフィストフェレスを演じたへーフゲンは、プロイセン州首相(ナチスドイツ空軍相のヘルマン・ゲーリングがモデル)の目にかない、ナチスのお抱え俳優になっていく。
そうなる以前に何らかの行動を起こす機会はあった。舞台美術家である妻、バーバラがナチスの危険性をいち早く指摘していたとき、ハンブルク時代の同僚俳優ミクラスが、ナチ党員でありながら、やがてヒトラー政権への反対運動を始めたとき――。
だが、へーフゲンは、バーバラには「演劇人である自分はドイツ語がすべて」と言って、パリへ亡命する彼女と別れ、ベルリンに留まった。ミクラスとの関係にいたっては、彼の活動をプロイセン州首相に密告し、ミクラスを死に至らしめる。
「私は俳優だ。政治とは関係のない人間だ」
周囲で問題が生じるたびに、へーフゲンは言う。しかし、権力は真綿で首を絞めるように彼を追い詰めていく。にもかかわらず、彼はそれを自覚しようとしない。愛人であり、彼のダンス教師であるジュリエッタが、ドイツ人と黒人とのハーフであるという理由だけで国外追放されても、へーフゲンは傍観するだけだった。
そんな彼を批判するのは簡単だ。しかし、自分の仕事が社会でどんな役割を果たしているのか? それが自分の思いとは逆の結果を招いていないか? そう自問してみれば、私たちは、へーフゲンがナチスドイツ時代の特異なキャラクターというだけでは済まないことに気がつくだろう。
ハンガリー人監督のイシュヴァン・サボーには、戦前ドイツの預言者を主人公にした「ハヌッセン」やハンガリーのユダヤ人一家、ゾンネシャインの歴史を描いた「太陽の雫」といった優れた作品がある。
それらの原点ともいえる「メフィスト」では、「俳優」に扮するクラウス・マリア・ブランダウアーの名演技も必見だ。
(芳地隆之)
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