たとえばお昼どき、たまたま入ったお蕎麦屋さんで食べたきつねうどんがとてもおいしく、幸せ感にしばし浸りながら、午後もがんばろうと思った経験がないだろうか。あるいは、よく行く洋食屋さんで、お気に入りのハンバーグライスを頼んだのに、生憎その日はできないと言われて意気消沈してしまったとか。
自分にとっては重要事だが、他人には聞かせられない話。口に出すのはちょっと恥ずかしいと思うようなことを物語にしたのが本書である。
ここに描かれるメニューは、台東区山谷の食堂で注文した豚肉炒めととん汁という「ぶたのダブった」組み合わせであったり、新幹線の車内に湯気を撒き散らすあつあつのシューマイだったり、特別の料理ではない。それらを主人公の雑貨商、井之頭五郎が、心の中でいろいろつぶやきながら食べていく。ただそれだけ。劇的なシーンも笑えるオチもない。
寡黙な食事は、メディアで言われる「個食」(家族で食卓を囲むことが少なく、みんながばらばらに食事をとるようになった時代を表した造語)とは違う。それは、主人公にとって、ささやかな幸せに包まれた、誰にも侵されたくない自由な時間だ。
この作品は1994年に刊行されて以降、文庫化をはさんで、今年に入ってからは新装版が出された。静かなロングセラーの秘密は、誰もが毎日思いを巡らせながら、あまり語ろうとしない、究極の日常を描いたところにあるのだろう。谷口ジローの実直なペンさばきは、そんな世界とうまくマッチしている。
偏見の謗りを恐れずにいえば、日々の営みをおざなりにするような人の平和論を、私はあまり信用できない。
谷口は優れた読み手でもあると思う。久住昌之とのコンビのほか、第2回手塚治虫漫画大賞を受賞した『坊ちゃんの時代』で組んだ関川夏央の原作からも、谷口は夏目漱石や森鴎外ら明治の文豪らを、彼らしいタッチでいまの時代に表出している。
なお、『孤独のグルメ』新装版の巻末には原作の久住昌之と作画の谷口ジロー、そして作家の川上弘美の鼎談が掲載されている。川上さんもこの作品のファンなのだという。なるほど。
(芳地隆之)
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