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マガ9レビュー

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vol.62
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田中清玄自伝

田中清玄・大須賀瑞夫/ちくま文庫

 昭和天皇、オットー大公、田岡一雄、鄧小平、フリードリヒ・ハイエク、今西錦司との交流があった男と聞くと、その人物像を描くのに混乱することだろう。戦前、武装共産党の指導者でありながら獄中で天皇制支持に転向、戦後は国際石油ビジネスに携り、政界への影響力ももっていたという経歴を知れば、なおさらだ。

 その田中清玄に当時の毎日新聞記者、大須賀瑞夫が1991年3月から1993年1月にかけて行ったインタビューをまとめたのが本書である。1993年9月に文藝春秋から刊行されたものがこのたび、文庫化された。

 田中の回想を読み進めると、毀誉褒貶の激しかった彼が、己の行動や思想に筋を通していたことが見えてくる。

 1941年に出獄した田中は、三島の龍沢寺に入山し、山本玄峰老師の下で修行を始めた。玄峰老師を訪れる者には鈴木貫太郎や吉田茂など、軍に反対する政治家も出入りしており、その時点で「日本が国家として成り立ってきたのは天皇制があるからだ」と確信した田中は、敗戦直後に天皇に拝喝する。

 「……それで私は『昭和十六年十二月八日の開戦には、陛下は反対であったと伺っております。どうしてあの戦争をお止めになれなかったのですか』と伺った。一番肝心な点ですからね。そうしたら言下に、『自分は立憲君主であって、専制君主ではない。憲法の規定もそうだ』と、はっきりそう言われた」

 田中はあの戦争を始めた軍と政治家をとことん批判した。靖国神社参拝には断固反対であり、天皇制を擁護する者として自らを右翼と名乗りながら、児玉誉士夫や岸信介には、「戦前の軍国主義の復活を図る者」として容赦しなかった。また、戦争を計画・遂行した立場にありながら、戦後はその責任を回避し、権力の中枢にいた瀬島龍三に対しても不快感を隠さなかった。瀬島は生前、戦前、戦中のことを一切語らず、昨年亡くなった。本書の田中とは対照的である。

 オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝、カール1世の長男、オットー大公の欧州統合の理念に啓発され、アジア連盟を構想していた田中は、たとえばインドネシアとの交流を重視する理由として、全世界のイスラム教徒10億人の存在を指摘している。湾岸戦争の際には、日本はアメリカとアラブ世界との仲介の労をとり、サダム・フセインには、引退を勧告すると同時に裁判にはかけないことを約束すべきだと述べた。

 このような現実的な方策を提言できるのは、数々の修羅場をくぐりぬけてきた経験からだろう。田中が中国の改革開放を進めた鄧小平を高く評価するのもうなずける。

 1993年末、田中は脳梗塞で死去した。享年87才。洋の東西を問わず、数多くの傑出した人物と語りあい、自らの思想を深めた田中が「遺言代わりに」と語った本書には、私たちにとっての課題がたくさんあるように思われる。

(芳地隆之)

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