地道な取材に裏打ちされた斎藤貴男氏の骨太な物言いと、自分のなかにある弱さと向き合った上で、盲従的な世間の流れに抗う森達也氏の語り口が、戦艦武蔵の元乗組員、渡辺清の手記を通して、うまくかみ合っている。
現代の日本に多くの問題意識をもち、同じような立ち位置にいる両者ながら、本書は決して「そうだ、そうだ」と相槌を打つような対談にはなっていない。お互いが違う体質の持ち主だからだろう。読む方にとっては考えるヒントがたくさんある。
それにしても、いまだ問題は、私たちの歴史認識だ。
戦争を生き延びた上述の渡辺清は、敗戦後の天皇の人間宣言にショックを受ける。これでは陛下のために死んでいった戦友たちが浮かばれないではないかと思ったのだ。
渡辺は戦後、皇居に赴き、天皇に直談判することさえ考えるが、やがて、戦時中に天皇を崇拝しながら、敗戦と同時にコロッと態度を変え、過去を忘れたかのように経済活動へと邁進する日本人そのものに疑問が及ぶ。
戦後60年以上が経ってもなお、近隣諸国との間で生じる戦争責任を巡る摩擦の原因を理解できないのは、この忘却のせいだ。それでいて、この国では、イラク人質事件時に沸き起こったような「自己責任論」が声高に言われるのである。
先日、ドイツのメルケル首相がイスラエル議会において、ドイツによるショア(ホロコースト)に対して謝罪の演説を行った。ドイツの首相としては、初めてのことだ。
こうしたことに対して、ドイツでも「私たちはいつまで謝り続けなければならないのか」という反発がしばしば起きていた。最近、苛立ちの声があまり聞かれなくなったのは、EUの中心国となった同国に、歴史に対する独りよがりは何のプラスももたらさないという認識が根づいたからだろう。
森達也氏はあとがきでイタリアの歴史学者ベネデット・クローチェの言葉、「すべての歴史は現代史だ」を引用する。 私たちはこの認識からスタートすべきだと思う。
(芳地隆之)
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