本書は、現在起訴中の元外務省官僚による国家論。国家を経済と宗教との関係から読み解く。
本書によれば、国家(権力)は、暴力を独占することで社会へと介入し、そこから財を収奪する機関である。だが、このような暴力機関が存在しなければ、そもそも社会は成り立たない。とりわけ産業社会(資本主義社会)と近代の国民国家(=ネーション・ステート)という体制はとても親和性が高いため、「予見される未来」においては、国家は消滅しないという。
著者は、マルクス経済学の概念「労働力商品化」を主に視軸に据え、資本主義社会のどこに国家権力が介入するかを説明する。「労働力商品化」とは、人間の「労働力」を貨幣と交換するために商品化することをいう。この人間の商品化をもって、資本主義システムは一応完遂する。
だが、このような経済システムによる社会は常に不安に苛まれる。商品としての労働者の価値が下落すれば(雇用されなければ)、労働者は不満を募らせ、暴動さえ起こす存在だからだ。
そうした不安を排除し、産業を発展させ経済を循環させるには、法を制定して暴力を独占し、資本家と労働者の間に介入して社会を管理・監視する第三者的な存在がどうしても必要になる。それが国家(官僚)の役割であるというわけだ。
もうひとつ。同一の民族(=ネーション)によって成り立つ国家(=ステート)は、資本主義の合理的生産を可能にする設備、機械の操作を理解し、上司の命令には従順な「善き労働者」を資本に代わって教育し、生産する。
「民族」を前提としたその教育は、同質な心理や感情、あるいは趣味や価値観を共有する人間を市場へ大量に送り出す。この国家による同質集団の生産が、資本主義には好都合だった。資本と国家が結託して、労働者とその社会を支配する構図が出来上がる。
けれど、そもそも社会にはなぜそのような暴力があるのか。著者によれば、それは、人間がもともと「原罪」を抱えた存在だからだ。「原罪をもつ人間が作り出したものには、常に悪が具現化される危険がある」。この原罪に苦悶する人間を救済できるのは、「神」をおいてほかにない以上、社会はその手前で暴力とつきあっていかなければならない。だから、国家はなくならない。
国家は、宗教の代替としての民族主義(=ナショナリズム)を煽りつつ、社会を支配していく。が、国家は決して神ではない。国家が社会の悪を排除することはあるが、それ自身の悪を排除することはできない。
したがって、国家権力の暴走をくい止めるには、社会を強化する以外にはない。それは、個人と国家・資本の間にたつさまざまな中間団体を強化することによってであると説く。
以上が本書の大まかな論旨だが、第四章「国家と神」を別にすれば、内容はほとんど左翼のそれだ。マルクス『資本論』、宇野弘蔵『経済原論』、柄谷行人『世界共和国へ』に至る一連の著作…。これら援用される文献は、いずれも「資本と国家の揚棄」を掲げた社会思想の最重要著作といってよい。
著者の言葉を借りれば、「日本の知的伝統の中で優れたものは、マルクス主義が日本に移入されて以降は左翼にある」からということになる。しかし、現在なぜそうした伝統が潰えてしまったようにみえるのか。この要因を、彼は1983年に出版された浅田彰の『構造と力』の出版にみている。「<浅田革命>というのが、あれほど革命的なインパクトをもたなかったとしたら、左翼的な知的世界は別の方向へ発展した可能性があったはずです」。
とはいえ、もしあの時浅田彰が登場しなければ、悪夢のような内ゲバの連鎖はさらに本格化していただろうともいう。つまり、著者の意図するところは、80年以降アカデミズムの中でポストモダン化(ビジネス化)した左翼思想を、衣を替えて政治-社会の舞台へ再び引きずり出すことなのだ。
このような思想的文脈・背景を知ると、外務省の元官僚にして自分は右翼のキリスト者だという者が、なぜマルクスを精読し、柄谷行人の理論に深い理解を示すのかが理解できる。
(北川裕二)
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