ノーベル文学賞作家、ギュンター・グラスは昨年9月に出版した回想録『たまねぎをむきながら』で、第2次世界大戦中、17才で“ヒトラーの私設軍隊”といわれた武装親衛隊に入っていたことを告白した。
戦後の西ドイツで、戦争の記憶を風化させようとする行為に異を唱え続けたグラスの知られざる過去は、内外に少なからず衝撃を与えたが、彼の代表作である自伝的要素の濃い作品の映画化を見直すと、そのストーリーと映像は色褪せるどころか、ますます重みを増しているように思える。
舞台はバルト海に臨む港湾都市、ダンツィヒ(現グダンスク)。第1次世界大戦後、ダンツィヒはドイツ領から切り離され、国際連盟管轄下の自由都市となっていた。
主人公はその町で生れたオスカル・マツェラートである。彼はグラスの分身ともいえるが、作家がオスカルに“自ら3才で成長を止め、奇声を発してガラスを割る”という特異な能力をもたせることで、オスカルを取り巻く人々や現実を――ときにグロテスクな描写を交えて――浮き彫りにしていく。
ただ、本当の主役は変遷していく町そのものかもしれない。1933年、ドイツでのヒトラーによる政権掌握後、ダンツィヒ在住のドイツ人は次第にナチスに傾倒していき、以前は「インターナショナル」を街中で鳴らしていたラッパ吹きも、レパートリーをナチスの行進曲にまで広げる。
そしてドイツ軍がポーランドを侵攻した1939年、ナチスに心酔し、自らも党員となったオスカルの父と、ナチスを嫌う叔父の対立は決定的になる。叔父はポーランド郵便局に立てこもってドイツ軍に抵抗するが、最後は捕らえられて銃殺。密かに叔父を愛していたオスカルの母も後を追うように自殺した。
そして6年後、ドイツは敗戦。父親をソ連兵に射殺され、両親を失ったオスカルはダンツィヒを離れ、ドイツ本国へ向かう。その地にとどまることを決めた祖母との別れで物語は終わるのだが、ギュンター・グラスは、80才を迎えたいまも自らを「難民の子供」と呼ぶ。故郷喪失者という意識は、生涯にわたって消えることがないのだろう。
ドイツ『フランクフルター・アルゲマイネ』紙(2006年8月11日付)のインタビューで、「誰から強いられたわけでもないのに、どうして自分の過去(武装親衛隊に加入していたこと)を書いたのか」と問われたグラスは、
「罪の意識は恥となり、自分のなかで重荷になっていた。それは表に出さなければならなかった」と答えている。
翻って日本の戦後史を見るに、直接的であれ、間接的であれ、自分が戦争に加担したことを「恥」と表明した文化人や知識人がいただろうか。
映画『ブリキの太鼓』の凄みは、シュレンドルフ監督の圧倒的な映像の手腕とともに、原作者の抱え続ける自らの過去との葛藤があってこそ生れたのではないか。いま改めてそう思う。
(芳地隆之)
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