最近、著者の初めての評論集『半眼訥訥』(文藝春秋)を読み直して、いささか驚いた。同書は、高村氏が1993年から1999年の7年間に新聞・雑誌に寄せた文章を集めたものだが、当時、彼女が抱いた時代の違和感が、2000年以降、様々なかたちで表出しているように思えたからである。
物書きを生業とする著書は、社会全体を覆う情報化の波と、自由の際限なき広がりに反して、言葉の力がずるずると後退していることを感じていたのだろう。故小渕恵三首相が在任中、自らが説明責任を十分に果たしていない言い訳として「自分はボキャ貧(=ボキャブラリーが貧困)」などと述べ、それをメディアが面白おかしく報じたとき、高村氏は「母国語を茶化す国家元首が世界のどこにいますか」と厳しく批判した。
しかし、言葉の劣化は小渕政権が“底”ではなかった。小泉政権時代にそれは極まるのだが、ここでは小泉氏の放言を列挙する代わりに、高村氏の発言を引用しよう。
「今の政治家の発言は『普段着』だと思う。本当ならばきちんとスーツを着てネクタイを締めて永田町にいなければならない人たちが、まるで実はシャツとステテコみたいな普段着で話をしている」(2003年7月24日付朝日新聞「すさむ政治家の発言なぜ」)
ステテコに慣れきった政治家では、いざ外交の場に乗り込んでも、相手に手玉にとられるのが落ちである。
こうした為政者の弛緩とそれを許してしまう時代の空気に対する危機感が、著者に何度もペンをとらせたのだろう。2冊目の評論集となる本書で著者は、選挙に行くことの重要性を繰り返し述べている。
自分が投票したって世の中は何も変わらないというシニカルな態度や、選挙になんて興味がないと無関心でいられる“幸せな”時代は過ぎ去った。いまや政治によってでしか解決できない問題が山積している。
「たとえば、働いても働いても年収二百万円以下であることには、企業の雇用形態と租税負担の構造に理由がある。またたとえば、公務員の年金だけが安定していることにも、ヒルズ族のような富裕層が短期間に生れることにも、すべて理由がある。だいいち世界第二位のGDPを誇る国で、働いても働いても貧しいということがあるのなら、それは端的に、政治が政治の役目を果たしていないということだろう」
にもかかわらず、現状に対する怒りといった感情が表出されないのは、多くの人々がその時々の情緒に流されやすくなったためではないかと著者はみている。
ここでいう感情と情緒は似て非なるものだ。前者は、状況を変えようとする個人の原動力となるが、後者は漠然とした時代の気分に過ぎない。そして、人を突き動かす感情を生むのは言葉の力である。
研ぎ澄ました言葉で時代と切り結ぶ著者の文章を読んでほしい。
(芳地隆之)
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