英国で生まれ育った著者は、現在、日本人の夫(というと“無境界作家”森巣博さんに怒られそうだが)とオーストラリアに住み、同国の大学で教鞭をとっている。その彼女が、自らの愛国心を意識したのは、2005年12月にシドニー近郊クロヌラ・ビーチで起こった暴動の報道に接したときだった。
「中東の不潔でだらしないやつらをオーストラリアから追い出せ」というメディア界の著名人に呼応した暴走族や右翼組織のメンバーが、レバノン系移民と思われる人々に襲いかかったのである。
白豪主義者の極端な行動を世界の人々はどう見るだろうか? そう思うと、著者はどうにもしがたい恥ずかしさと悲しさに苛まれた。だが、同時にそうした感情が生まれるのは、20年以上暮らしているこの国を愛しているからだということに気づく。
このくだりで、ぼくは2004年に起こったイラクでの日本人人質とその家族に対する国内でのバッシングを思い出した。一部の政治家やメディア、あるいはネット上の匿名者たちが被害者に非難や罵倒を浴びせるさまを、世界の人々はどのように受け取ったか?
自分よりも立場の弱い者や社会のマイノリティに向けられる攻撃性は、「国に対する弱々しい従属的な愛情」から生まれると著者は言う。
J・F・ケネディは1961年1月の大統領就任演説で、「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」と述べた。当初、ぼくはこの演説をケネディが国民に「滅私奉公」を説いているのかと疑ったが、そうではなく、若き大統領は政治への積極的なコミットメントを呼びかけたのだろう。
そうした姿勢が政府に対する厳しい批判精神をも生むのは、「自分の国の中の善と悪を見分けようと努力する愛情」があるからだ。その感情を「愛国心」と表現することに著者はためらわない。
愛国心を政府が国民に求めると、話がおかしくなるのである。
愛するか、愛さないかは相手が決めること。「俺を愛せ」と迫るのはストーカーであり、国がその行為に及んでしまえば、その体制は限りなくファシズムに近づいていくだろう。
愛国心は社会正義にも、抑圧装置にも化けうる。そのことを肝に命じておきたい。
(芳地隆之)
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