関東平野の裾野の町で気温が40℃を越えたその夜、東京都心部・新大久保界隈に広がるコリアン・タウンの一角では、韓国の民衆演劇が上演され、文字通り熱気に包まれた。来日した民衆劇団ノリペ・シンミョンによるマダン劇『立ち上がる人々』である。
公演場所は、職安通り沿いの韓国料理店の駐車場。車12〜13台ほど止めれば満車になってしまうような小さな空間。ビルに囲まれポッカリ穴開いた、そんな場所が会場だった。ステージは円形で、観客はこのステージを360度囲んで観る。ステージとはいっても“舞台”と呼べるような道具立ては何もない。土色のジュータンが敷いてあるだけだ。客席もない。ただゴザの敷かれた畳一枚分くらいの無骨な台が10台ほどあって、そこに座るか、あとは布の敷かれた地べた。むろん屋根もない。見上げれば都会の四角い空である。これに楽団の演奏場所と照明。200人ほど入れば満席といってよい仮設劇場は、必要最小限のものだけで構成されていた。
客席と舞台の境界は、商業劇場のように截然と切り離されてはおらず、相互に開かれ、親密感があり、融合さえしているように見えた。しかし、夜も更けてくると、ビルに囲繞されていたこともあってか、未知の洞窟に彷徨い込んだような気分になる。限られた者しか参加することのできない秘密の儀礼に紛れ込んでしまったような感じ、とでも喩えればよいか。
ともあれ、会場構成について詳細に書くのは、それが今回演じられた物語内容に厳密に則したものになっていたからだ、というばかりではない。それより重要なのは、この劇団が、演劇はどこでいかに演じられるべきかといった根本的な問いを、きちんと押さえていた点にこそある。
つまり、例えば都会の一角の駐車場を演劇空間に変貌させてしまおうということが、民衆演劇のみならず大衆文化の可能性を展望するにあたっては、やはりいまだに重要なことなのだ。閉塞した「セキュリティ社会」にあってはなおさらである。なぜなら、そのことが、公共空間が何者かによって管理・監視されたうえで与えられるのではなく、ぼくらの自由な空間として創造しうることを、多少なりとも証明することになるのだから。常に、この地点から開始しようという問題意識がなければ、民衆も芸能もクソもない。マダン劇においては、このことを念頭に理解を深めていくべきだろう。
そもそもマダン劇の“マダン”とは、日本語で“広場”のことだ。演劇を単に空地で上演するだけのことなら、何もわざわざそう名のる必要はなかったはずだ。様々な民衆芸能は、もともとそうした場所で演じられてきたのだから。したがって、この名称を敢えて掲げるということには、特別の意図があったということだろう。おそらくそう名のることで、自由な広場の不在をアピールする、と同時に、様々な民衆芸能が可能な場を創出することが目指されていた。
マダン劇の歴史は、韓国民主化の軌跡と並行したものである。それは、1960年末より朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権に対する民主化運動と共に発展した文化=政治運動という側面をもっていた。だから、マダン劇の登場人物は、権力の被抑圧者として貧困に喘ぐ民衆であることが多い。そして、民衆の表現形態とは、伝統的な民衆芸能のことであった。つまり、マダン劇は、ウィリアム・モリスなどを嚆矢とする世界の民芸運動と同様、今まさに途絶えようとしている前近代的な伝統芸を再発見して、それを復興させる感性と、民主化を求める近代的な社会意識を併せ持っていて、このふたつの絡み合いをこそ演劇運動の核心に据えている。
『立ち上がる人々』は、こうした韓国民主化運動の中においても、とりわけ多数の死傷者を出したことで知られる「光州事件」(1980年5月)を題材にした物語である。貧しい農家に生まれた少年が、やがて民主化運動のパルチザンとなって活躍する。しかし、光州蜂起は失敗し、全滅してしまう。農夫婦は、家出した息子がパルチザンとして戦死したことを後に知って悲歎にくれる。だが、その激しい悲歎がパルチザンたちを蘇らせる奇蹟を起こし、民主化運動はさらに発展を遂げてゆくのである。楽士たちの生演奏によるプンムルの強烈なリズムが全編で炸裂する中、伝統芸や舞踏が各シーンに盛り込まれ、高揚感のうちに「自由」が讃えられる。
演劇記号論の先駆者として知られるロシア・フォルマリズムの民俗学者ボガトゥイリョフはかつて、『チェコ人・スロヴァキア人の民衆演劇』(1940)の中で次のように述べていた。「現代演劇に比して民衆演劇の独創的なひとつの特徴は、劇的ないし悲劇的ですらある場面と喜劇的、道化的舞台との緊密な結合である」と。そして、「この絡み合いはきわめて有機的であり、その役柄を悲劇役と喜劇役のいずれかに属せしめることが困難なくらいになる。ましてや、登場人物の同一台詞、同一衣裳が、観客の一部には喜劇的なものとして、別の一部には悲劇的なものとして作用しうる以上、なおさらである」という。
この論文で述べられていることは、『立ち上がる人々』に対しても該当する。例えば、一幕目(「一番目のマダン」という)に登場して、子供の出産を祝う滑稽な踊りや奇天烈な表情の演技で会場を沸かした片足の不自由な農夫(コンベパリ)と背中に瘤のある農婦(コッチュ)が、三幕目(「三番目のマダン」)においては、光州事件で先立たれた息子の死を嘆く悲劇の人物として登場するといったように。
このような特徴は小道具にも表されていた。しかし、『立ち上がる人々』において小道具と呼べるものは、ひとつしかない。それは、何の仕掛けもないただ長いだけの白い布のことである。この布は、劇中で登場人物以上に重要な機能を担っていたといってよい。「一番目のマダン」では、夫婦の植える“苗”や、丸められて生まれたばかりの“赤子”に見立てられたりしていた。ところが「三番目のマダン」においては、死んだパルチザンたちをすっぽり覆う“繭糸”として扱われたかとおもうと、最後には、農婦の“瘤”になって、背中からスルスルと取り除かれていくのだ。これは、農婦(民衆)が悲劇をくぐり抜けて、重い抑圧から解放され、民主化を実現していく様を表しているのだろう。
白布の果たすこのような機能を基に、この演劇を要約するとすれば、次のようにまとめること ができる。この演劇は、悲劇的なクライマックスとしての「光州事件」に象徴される韓国の民主化と、貧しい農夫婦と子の生涯が、白布の触媒的な機能によって交叉しつつ、「再生」を果たす物語である、と。白布はこのとき、「民族」の悲劇的な記憶を、希望の未来としての「民衆」へと転換させるためのファクターだったといえる。
(北川裕二)
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