去年の10月、27年ぶりの新訳が出たのを機に再読。時代は米ソ冷戦であるのに、古さをまったく感じさせなかった。
主人公のモーリス・カッスルは英国情報部に勤務する諜報部員として、アフリカ情勢に関する情報を現地の工作員たちから収集し、分析することを任務としていた。しかし、彼は、それらの情報をソ連に流す二重スパイだった。
カッスルは南アフリカ勤務時代、反アパルトヘイトの黒人運動家セイラと彼女の連れ子であるサムを愛したため、南アフリカ当局から睨まれていた。身の危険を感じたカッスルはセイラとサムを連れて国外脱出をするのだが、それを助けてくれたのが南アのコミュニストだった。彼の恩義に報いるため、帰国後、カッスルは機密情報を敵国へ提供したのである。
やがて英国情報部の上層部は機密漏洩の事実を掴む。しかし、疑惑の目はカッスルではなく、彼の部下デービスに向かった。デービスは密かに毒殺され、カッスルはモスクワへ亡命する。
これは、実際に英国で起きたキム・フィルビー事件を題材に、グレアム・グリーンが書いた小説である。
推理もののネタばらしは本来禁じ手だが、この作品、スパイ小説のジャンルに収まりきらないのだ。物語は「二重スパイのアイデンティティ」という人間の根源を問うテーマへと向かい、それは007シリーズが色あせてみえてくるほど深い。
『第三の男』の原作者でもあるグリーン自身、情報部での勤務経験があり、それが作品のリアリティに厚みをつけているのだが、物語の核心が宗教的な域に達しているのは、グリーンが敬虔なクリスチャンであるからだろう。
国家に絶対的な忠誠を誓うべき人間が、それを振り払ったとき、帰属意識はどこに向かうのか?
そこにタイトルの鍵がある。
(芳地隆之)
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