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さまざまな分野で活躍する若者に、
その思いやモチベーションを語ってもらうコーナー。
3人目の登場となる上江洲修さんは、音楽やサブカルに加えて、
平和や環境など社会派イベントの開催も行なっている
新宿のライブハウス「ネイキッド・ロフト」の若き店長。
「イベント」への思いについて、開店当時のことについて、
お話を聞いてみました。
上江洲修 (うえず おさむ) 1978年 沖縄県生まれ。高校卒業後、地元の職業訓練学校へ。派遣会社に登録し群馬県の工場で1年間働いた後に、東京の専門学校に入学。新宿ロフトでのアルバイトの後、2004年12月より新宿ネイキッド・ロフトのオープンと同時に副店長に。2008年より店長。「6.23」(慰霊の日)の歌とトークイベントなど、数々のオリジナル企画を立ち上げ成功させている。新宿Naked Loft
──上江洲さんは、沖縄のご出身ですよね?
本島南部の大里村(現南城市)です。沖縄の中でも、かなり田舎のほうですね(笑)。
──そこからいつ、どうして東京に?
高校を卒業した後、「とにかく県外に出たい」と思って、群馬県に1年間「出稼ぎ」に行ったんです。そのときにたまたま行った「フジロックフェスティバル」に感動して、「すごいな、自分もこういう場をつくりたいな」と思って。東京のある専門学校の「プロデュース科」の広告を電車の中吊りで見たのをきっかけに、入学を決めて再び上京しました。
──そこでイベント企画を学んで・・・。それが今の仕事に就くきっかけですか?
でも、一時は「卒業したら沖縄に帰ろうかな」と思っていたんですよ。1年生のときに、紹介されてあるイベントのアシスタントディレクター(AD)をやったんですが、あまりにきつくて1カ月くらいでやめちゃったんですね。そのことで自信がなくなってたし、「東京じゃ自分のやりたいことをやるのは難しいのかな」とも思って。
でも、2年の夏、それを仲のよかった専門学校の先生の1人──バンド「怒髪天」のボーカルの増子直純さんなんですけど──に相談したら、「せっかく東京に来たのに、このまま帰るのはもったいないだろう」と言われて。そこで紹介してくれたのが、新宿ロフトでのアルバイトだったんです。
──ロフト系列店の中心でもある、新宿のライブハウスですね。当時はまだ、もちろんネイキッド・ロフトはなくて。バイトを始めてみて、どうでした?
最初は大変でした。2週間くらい研修があったんですけど、自分より年下ばかりの周りのスタッフから、がんがん怒られるわけですよ。そんなの今思えば当たり前なんですけど、当時は我慢できなくて。
さっきのADを1カ月でやめたときもそうなんですけど、「すぐ逃げちゃう」のが当時の僕の悪い癖だったんですね。そのときもその癖が出て、「風邪をひいた」とか言ってずる休みしちゃった。で、「もうやめよう」って決めて、増子さんに挨拶に行ったら、えらく怒られたんです。「そんな、十何日間しかやってないのに何がわかるんだ、せめて1年は続けろ」と。
それを聞いて、「たしかに、まだ何もやってないな」と思って。それで何か気持ちが入れ替わったというか・・・そのまま「調子がよくなったので行きます」ってその日もロフトへ行って、それ以降、バイトを休んだことは1日もなかったです。
──そこから、徐々にイベント企画にもかかわるように?
最初は仕事を覚えるので精一杯だったんですけど、半年くらい経ったころからやっぱり企画をやりたいな、と思うようになって。
最初に企画を出したのが、2002年の9月11日にミュージシャンの喜納昌吉さんを呼んで開いたイベント。前年のNY同時多発テロ事件が、自分にとってもすごく衝撃的だったので、「9・11」という日付にこだわりたかったのと、どうせやるなら自分にしかできないものを、と思ったのが出発点でした。もちろん、まだ新人でしたし、100%自分の企画という形ではなかったけれど、喜納さんが「花」を歌うのをロフトで聞けたときはうれしかったですね。あれはやっぱり、忘れられない原点です。
──その後も、いろいろとイベントを?
やらせてもらいました。店長や他のスタッフにもずいぶんフォローしてもらって。身分はアルバイトのままだったんですけど、あれやりたい、これやりたいってガツガツ動いてましたね。今よりも動いてたかも(笑)。
それで、3年目くらいのときに、沖縄出身だったり、沖縄に興味を持ってくれていたりっていうミュージシャンを集めて、「沖縄」がテーマのイベントを企画したんですよ。民謡を取り入れたりして。そうしたら、当時の新宿ロフトの動員はふだん、200人行くか行かないかだったのに、そのイベントは平日の夜にもかかわらず、350人くらい集まった。イベントの楽しさを覚えた経験でしたね。
ただ、それである程度満足したということもあって、そのあと1回新宿ロフトを辞めるんですよ。
──そうなんですか?
ずっとアルバイトという身分でしたしね。イベントは一応やったし、今度は新しいこと、それも自分で店をやってみたいと思ったんですね。知り合いが経営するバーの2号店をやるという話もありましたし。
ところが、ちょうどそのころ、新宿ロフトの支店となる「ネイキッド・ロフト」開店の話が持ち上がるんです。当初は主に料理担当のスタッフとしてやらないか、と言われたんですが、「それだけじゃなくて企画もやらせてほしい」という条件を出して、副店長として入ることになりました。自分の中にも、単なる飲食店じゃなくイベントスペースへの未練みたいなものはありましたし、もちろん「新しい店をつくっていく」ことにも惹かれたんですね。
──うーん。なんだか、自分でどんどん行動して、つかみとっていくという感じですね。
でも最初は、本当に大変でしたよ。店長もアルバイト経験しかなくて、いわばほとんど素人が2人で、一からつくっていったわけですから。内装からメニューから何から、全部自分たちで決めて・・・店をやるってこんなに大変なんだ、ということがわかりましたね。寝るヒマも全然なかったです。
──イベントのほうは?
最初のコンセプトでは、基本的には普通の飲み屋で、週末とかに無料イベントをやれれば、という感じだったんです。
でも、何しろお客が全然来ない。ネイキッド・ロフトのある大久保は在日外国人の多いところですけど、ちょうど石原都政が不法滞在外国人の摘発に力を入れて、街中に人の姿が少なくなってたときでもあったんです。もちろん、店自体の魅力もなかったんだと思うんですけど(笑)。
で、そのうち、まだイベントを入れたほうが人が来るということがわかってきたので、店長と相談して「毎日イベントを入れていこう」ということになった。開店して2ヶ月目くらいからでしょうか。
──毎日というのは、相当大変だったんじゃ?
ほんと大変でした(笑)。店長と2人で、1月に1人15本くらいずつイベントを担当するんですけど、そのうち、ロフトの他店舗の関係などで企画が持ち込まれてくるのは5本程度。あとの10本は自分たちで、一からつくらないといけない。友人のミュージシャンを無理やり呼んだり、かなり無理やり感はあったと思います。でも、そうやって無理やりの企画でも、ちゃんとお客さんが数十人は入って、成立したときはすごくうれしかったですね。
店の外でも、川崎CLUB CITTAでの「2005東京ピースフルラブミュージック フェス」の企画に携わりました。これは、その頃日比谷野音でやっていた「琉球フェスティバル」に対抗してやったのですが、700〜800人の人が集まって、大成功でしたね。そういうことの積み重ねが、自信につながっていったような気がします。
穏やかな語り口が印象的な上江洲さんですが、
「やりたいこと」に向けての行動力はすごい!
次回、毎年6月23日の「慰霊の日」イベントについて、
そして故郷・沖縄への思いについてもお話を伺います。
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