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1999年9月、「あの時」の清志郎さん

 手元に1枚の写真がある。
  壁に軽く寄りかかりながら横一列に並ぶ筑紫哲也さん、坂本龍一さん、忌野清志郎さん。その3人を挟むようにして、私と当時の職場の同僚が両端に立っている。

 写真が撮影されたのは1999年9月末日。当時、私はある雑誌の編集部に在籍していて、その雑誌の企画として実現した3人の鼎談を、写真に映っている同僚と共に担当したのだった。
  鼎談終了後に3人が並んだメインカットを撮影したのだが、私と同僚の心中を読み取ったカメラマンが「せっかくだから一緒に撮らせてもらえば?」と、3人と一緒の「記念撮影」を提案した。
  約20年間この仕事をしているけど、取材相手にサインをお願いしたり、記念撮影をお願いしたりすることなど編集者として「よろしくない行為」だ――と今でも基本的には思っているし、当時もそうだった。
  でも、あの時、そんなことはどうでもいい、と思った。何しろ、相手はこの3人。「え、ほんとに、いいんですか?」と聞くのと同時に、すぐに横に並んだ。元同僚の男性も同じような気持ちだったに違いない。彼も私と同じ1965年生まれ。中学時代に、清志郎さんのRCサクセション、坂本さんのYMOに強烈な洗礼を受けた世代だ。
  記憶は確かではないが、遠慮気味に3人の横に並んだものの、図々しくも私はカメラマンに4~5カットの撮影をお願いしていたと思う。

 その鼎談記事のタイトルは「(筑紫哲也さんが)坂本龍一、忌野清志郎と語る オペラ『LIFE』・パンク『君が代』――時代とうた」というもの。当時初めてオペラに挑戦した坂本さんと、座談会の数週間前にパンク調にアレンジした「君が代」を発表して話題を呼んでいた清志郎さんをゲストに迎えて、筑紫さんが話を聞くという構成だった。

 先日、改めて読み返してみると、清志郎さんの「パンク君が代」を、自民党の権力中枢にいて首相以上の力を持っていたとされた某官房長官が「いいじゃないか」と言っていたことなど意外な事実もが書かれていて、自分が関わった記事にも関わらず、一読者として「面白いなあ」と素直に思えた。と同時に、当時の記憶が少しずつ蘇ってきた。

 3人は「超」がつく忙しい人だったから、スケジュールの調整がけっこう難しかった。ようやく2時間程度都合のつく日が決まり、いざ取材当日。ところが、時間になっても清志郎さんが来ない。確か、前の仕事が押していたのだと思う。仕方がないので、坂本さんのオペラについて筑紫さんが聞くという「対談形式」で取材を開始。本文8ページの記事のうち約3ページがこの2人の「対談」で埋まっているので、たぶん清志郎さんは30分以上遅れたのだと思う。

 ようやく清志郎さんが登場。担当編集者の私としては、すぐにでも「パンク君が代」の話を聞きたいと思っていたところ、「最近ハマっているんですよ」と持参したホラ貝を吹き始める清志郎さん。そのあと鼎談の最中にも何回か吹いていたように思う(笑)。

 そんな乱入気味で登場した清志郎さんだったが、「パンク君が代」については率直に語ってくれた。

 (当時の)「自自公」政権が数の論理で(「国旗・国歌法」をはじめとする)いろいろなものを押し進めてしまった/若い人やサラリーマンがそのことに全く興味を持たないように見えた/だからロックで「君が代」をやれば興味を持つ人がいるかもしれないと思った/

 座談会が終わり、清志郎さんと坂本さんが一足先に帰ったあとのこと。「まさか清志郎さんの口から『自自公政権』という言葉が出ると思いませんでしたよ」と私が言うと、筑紫さんが大笑いした。今回この原稿を書くに当たって、元同僚から聞いたそんなエピソードも懐かしい限りだ。

 記事中の清志郎さんの説明によれば、パンク「君が代」を発売中止にしたレコード会社の言い分は「見解の二分されている重要事項に関して一方の立場に立つかのような印象を与える恐れもある」ということだった。それに対する清志郎さんの反撃の言葉がいい。
   「二分されていたのを法制化したんだから、もう二分されていない」「だから、何をやってもいい」

 鼎談では、当時の小渕内閣のことや、まだ出始めたばかりの宇多田ヒカルのことなど、さまざまな話題が出たが、根底に流れるテーマとして、息苦しくなり始めた世の中に対する3人からの警鐘が読み取れる。

 あれから10年――。この鼎談のことも、冒頭に書いた写真のこともすっかり忘れていた。

 清志郎さんの告別式が行なわれた翌日の日曜夜。NHKで放送されていた追悼番組を見ていたとき、「そういえば…」と写真のことを思い出し、家の本棚のあたりをごそごそと探した。案外あっさりと見つかった。

 意外なことに、亡くなったばかりの清志郎さんへの思いよりも、ニッコリ笑う筑紫さんの顔を見て「そうだよなあ、筑紫さんも、もういないんだもんなあ」と胸が熱くなってしまった。そのときテレビの向こうでは、「夢とは?」と聞かれて「やっぱり世界の平和ですね。そのために、音楽っていうのはすごい平和的な行為だと思うんで、何とか微力ながらもですね、平和のために頑張りたいんですよ」と語る清志郎さんがいた。

 欧米に比べて、日本では政治的発言をする歌手や俳優は極端に少ない。特に「売れている人」であればあるほど……。ある歌手にインタビューをしたとき、「僕はそんなこと関係ありませんよ」と、憲法や日米安保などについて語ってくれたことがあった。しかし、出来上がった原稿を送ると、その部分がほとんど「トルツメ」になって戻ってきた。別にそのことを責める気はない。それが日本の芸能の世界では「当たり前」なのだから。

 「平和」「反核」など、自分の思うことを歌にし、語っていた清志郎さん。何かと制約の多いテレビキャスターという立場でありながら、最後まで平和の大切さを語った筑紫さん。
  この原稿を載せるのが「マガジン9条」だからというわけではないが、憲法改正に関する国民投票という現実がグッと近づいてきた今、当たり前のことを当たり前に語れる2人がいないことを本当に残念に思う。

 筑紫さんと清志郎さんが共に癌と闘っているころ、筑紫さんと親しい編集者からこんな話を聞いた。ある日、筑紫さんに突然電話をかけてきた清志郎さんは「僕は手術なんかしないよ。でも治すよ」というようなことを言ったのだという。それに対して筑紫さんが何と答えたのかは分からないが、その話を教えてくれた編集者によれば、お互いが癌になって以降、2人は電話で時々話していたようだという。
  後からやってきた清志郎さんに対して「なんだよ、こっちの世界に来るの、まだ早いよ」と、あの太くて低い、それでいて大きい声で、笑いながら言う筑紫さん。それに対して、恥ずかしそうに何かをつぶやく清志郎さん。ありきたりな表現だけれど、改めて写真を見ていたら、そんな光景を思い浮かべてしまった。

追記  清志郎さんが亡くなったことに関するテレビや新聞などの報道では、反原発ソングや「パンク君が代」などを引き合いに出して、反権力の姿勢を強調している。もちろんそれは間違いない事実だけれど、思想や主義主張などとは関係なく、中学時代から純粋にその音楽に刺激を受けていた私としては、清志郎さんの歌やライブが純粋にファンからの支持を得ていたことも、改めて言っておきたい。

尾石薫

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