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2012-03-21up
時々お散歩日記(鈴木耕)
86男と女と原発と
人間には「五感」というものがある。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚がそれだ。つまり、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触る、という感覚のことだ。むろん、それは人間だけではなく、あらゆる動物に共通なものだろう。
だが、その「五感」だけでは捉えきれない感覚がある。いわゆる「第六感」というやつだ。
ある種の動物は、人間よりも優れた「第六感」を持っているともいわれる。たとえば、大災害の直前に、多くの犬が遠吠えした、飼い猫が突然姿を消した、鯨やイルカが大量に浜辺に打ち上げられた、見たこともない深海魚が浮上してきた…などという話をよく聞く。これらは、野生動物特有の生存本能なのだという学者もいる。危険をなんらかの感覚で察知して、安全なところへ逃げようとする行動である。
動物に限らず人間にだって、「胸騒ぎ」だとか「正夢」だとかという言葉がある。それが「第六感」のことではないか。「あの時、なんであんな不思議な行動をとっていたのだろう」と、後になって思い返すこと。たとえば、何気なく1本電車を遅らせたら、最初に乗ろうとした電車が事故を起こした、などということも現実に起きる。
「危険を察知する」という感覚は、生物が生き残るために絶対に必要なものだったはず。だが、科学技術の進歩に慣れてしまった現代人からは、その「危険察知の感覚」が次第に失われてきているのではないか。すべてを器械、特にコンピュータが教えてくれるのだから、その大切な感覚が摩滅していくのも当然か。
この感覚の有無は、男女間の差が激しいようだ。
最近の各報道機関の世論調査によれば、「原発再稼働」に関して、賛成が男性40~45%、女性は20%以下、反対が、男性が45~50%ほどで、女性は80%を超える、という結果が出ている。総合すれば、再稼働賛成30%弱、反対60%以上。各メディアによって数字に若干の差はあるものの、多くの世論調査の一致した結果だ。女性の原発に対する危険意識は、男性に比べて著しく高い。
僕は、あまり世論調査を当てにしないタイプだけれど、この男女間の差には驚かされる。男たちからは、危険察知という「第六感」が失われてしまったのか。それとも、女たちの体の中の生存本能が男どもより鋭いということなのか。ただ、それを「母性本能」という言い古された言葉で説明することには、僕は違和感を持つ。
では、この原発についての男女差は、いったいどこから来るものなのか? そこで、僕はひとつの仮説を立ててみた。
日本の男たちは「社会」と「会社」を混同している。
もしくは「社会」とは「会社」のことだと思い込んでいる。
自戒を込めて言うのだが、僕自身も会社員だったころ、いつの間にかそう思い込まされていた節がある。ことに僕の場合、出版社勤めだったから、自分の仕事が社会との接点であり、「会社そのものが社会と同化している」と不遜にも考えていたような気がする。僕に限らず、多かれ少なかれ日本の会社員という人種は、現在もそういう考え方をしているのではないだろうか。
「社会」と「会社」…。漢字を引っくり返しただけの字面が似ていることも影響しているのかもしれない。いや、それ以前に、会社という言葉を作った人(誰だか知らないけれど)は、「会社と社会は表裏の関係」にあると考えたからこそ、こんなネーミングをしたのではないか。
つまり、明治期に日本で資本主義社会がいびつではあれ遅ればせながら成立し、会社というものができ始めたころから「社会≒会社」、言ってみれば「社会と会社はほぼ似たようなもの」という認識がすでに発生していたのではないか。だから、カンパニーに会社という訳語をあてた…。
そして明治期以来、日本社会はそのようなものとして「会社」を認識してきた。
「会社は(ほぼ)社会である」。
日本では、男は外=会社(仕事)、女は内=家庭(家事)、というのが戦前までの一般的な風潮だった。男は外に出て仕事をし、女は家庭で子育てに専念する。それが常識とされてきた。長い間の慣習が、いつの間にかDNAのように日本人の中に根づいた。女が外に出て仕事を得るようになっても、そのDNAだけは生きていた…。
男たちは誤解した。「社会=家庭の外=会社」という、とても正解とは言えない等式を刷り込まれた。むろん、刷り込んだ者たちがいた。そう刷り込むことによって“利益を得る者”がいたのだ。そして会社員たちは「会社の仕事に励むことが社会に貢献すること」と思い込まされた…。そういう構図ではないか。
だから、男たちは「会社が立ち行かなくなることは、社会が立ち行かなくなることだ」と思い込んでいる。まったくの勘違いなのだけれど、どうも“リッパな男たち”の「原発」に関する意見を聞いていると、まるで自分が社会を背負っているような気負い、そしてそれが原発再稼働に直結しているように思えてならない。
「原発を止めて電力不足に陥ったら我が社は厳しいことになる。他社も同じだ。結局、日本経済は破綻するゾ」と、酔った中年サラリーマンが、居酒屋で若い同僚に説教しているのを見たことがある。“日本経済を背負う会社員”という滑稽な人間が存在していたのだ。
この男の思考回路は〈原発停止→所属する会社がピンチ→日本経済破綻→日本社会の危機〉と回っているらしい。いつの間に彼は「オレが日本を背負っている」などという大仰な考えを持つようになったのだろう、と僕は聞きながら苦笑していた。
こんなに極端ではなくとも、日本の男たちの多くは、頭の隅で、自分が社会を背負っている、自分の仕事は社会のためにある、と思い込んでいるようだ。
むろん、僕もそのくびきからは自由でなかったと思う。日本の男たちの多くが大地を離れ、会社というものに帰属するようになってから、危険を察知する能力を失い、社会と会社の混同の中で生きるようになった。その集大成が「原発」だったのではないか。
欧米と比較して日本の男たちが、これほどの事故を経験しながらなお、極めて「原発」に対して容認的なのは、こんな背景があるからなのではないだろうか。
日本の女たちは、家というものを運営していくという“仕事”から、戦後になっても解放されなかった。男が“仕事”を理由に、子育てや家事を放棄してしまった高度成長期にも、女は家(旧い大家族の「家」ではなく、新しい抑圧としてのニューファミリー的「家」)を独力で支えなければならなかったからだ。それ故、女たちには、男たちのような「社会と会社の混同」が生ぜず、逆説的ではあるが「危険察知感覚」を保持し続けたのかもしれない。
むろん、これはこの国における一般論、しかも僕の勝手な仮説であることを断っておく。
危機感覚が摩耗してしまった男たち(ごく少数の女もいるけれど)が最も多く棲息しているのが、やはり永田町と霞が関ということになる。
こんなひどい事実もある(朝日新聞19日夕刊)。
核燃サイクル 認可進む
原子力政策見直しの最中
原子力政策や規制のしくみを抜本的に見直す作業が進む中で、核燃料サイクルにかかわる事業に相次いでゴーサインが出されている。認可しているのは、間もなく組織が消える経済産業省原子力安全・保安院だ。「駆け込み認可は許されない」という識者もいる。
保安院は15日、電源開発の大間原発(青森県)の建設工事に関わる変更計画真性について、「技術上の基準に適合している」などとして認可した。ウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を100%使う世界初の原発。核燃料サイクルにかかわる中核施設の一つだが、昨年の東日本大震災後、工事が止まっていた。
保安院は2月にも、青森県にある日本原電のウラン加工施設の遠心分離機の設置も認可した。
関係者が注目するのは、同県六ヶ所村で日本原電が進める国内初のMOX燃料加工工場の建設に関わる申請。認可されれば、MOX燃料の加工や検査、貯蔵に関する多くの工事に着手できる。(略)
保安院核燃料サイクル規制課は「駆け込みではない。厳正に審査している」とするが、3月中の認可は否定していない。(略)
間もなく原子力規制庁という役所ができることになっている。規制庁は、本来ならば4月1日設置予定だったが、与野党間のゴタゴタで実質的な国会論議に入れず、発足はかなり延びることになった。
「安全・保安院」という徹底的に原発推進派だった役所(本来は原発規制が役目だったはずが、まったく逆にしか機能しなかった)は、規制庁が発足すれば、それに吸収されて消えるはずだ。つまり、もう1ヵ月も経てばなくなるはずの役所なのだ。
そこで、消える寸前に「とにかく危ないものは今のうちに認可してしまおう。もう組織自体が消えてしまうのだから、何かあっても責任はウヤムヤにできる」とでも考えたのか、国の原子力委員会が、核燃料サイクルをどう位置づけるかの議論を終えてもいないのに、それを飛び越えるかのような動きを見せている。
彼らには危険察知感覚など、砂粒ほどもない。ひたすら所属官庁の利益のみを優先する。あれほどの大事故を経験しながら、しかもその事故の検証さえ終わらぬうちに、原子力政策の根幹に関わる核燃料サイクルの認可を行おうというのだ。
もう聞き飽きるほどに言われ続けていることだが、いったいこのサイクルの終焉はどうするのか。使用済み核燃料すべてを再利用できるならば、サイクルも回り続けるかもしれない。だが、どれだけ再利用できるかは誰にも分からない。「15%が再利用できる」と原子力委員会事務局が説明していた数字には何の根拠もないウソだったことが判明したばかりだ(東京新聞3月15日)。
あとは、始末に困る途轍もなく危険な核のゴミが膨大に残るだけ。その処分方法はいまだに、ない!
核燃料サイクルの重要なもうひとつの環が高速増殖炉「もんじゅ」だが、これも事故ばかり。3月14日、制御の極めて難しい冷却剤ナトリウムの監視装置が作動できなくなるという事故。サイクル自体が、いたるところで回転不能になっている。
それでも保安院は「駆け込み認可」に奔走する。危機感覚の欠如どころではない。そんな言葉さえ、保安院の辞書にはないのだ。
電力会社だとて、その点では負けてはいない。
口を開けば「このまま原発を動かさなければ、燃料輸入費増加のために電気代を値上げするしかない」と危機感を煽るが、肝心の原発の危険性に関してはほとんどスルー、ひたすら燃料費高騰を言い立てる。事故への危機感覚ではなく、カネの心配のみの金銭感覚なのである。
しかし、ほんとうに電気代値上げはやむを得ないのか。
膨大な広告費や原発立地自治体への目を見張るような高額の交付金や寄付金。更には社員の豪華な厚生施設、高金利の社内貯蓄制度、社内サークルの活動費までもが電気代に含まれていた事実。それらをなくすことが、電気料金値上げの前にまずやるべきことだろう。
だが、それ以上に問題なのは、値上げの口実に最も多く利用されている「燃料(特に液化天然ガス=LNG)輸入代の高騰」論である。
東京新聞はかなり早い段階で(2月25日)、その欺瞞性に触れた社説を書いている。
東京電力は企業向けの料金値上げ発表に続き、家庭向けも国に値上げ申請する。原発が失った発電能力を火力で補っているため、燃料費が年八千億円以上増え赤字経営に陥るからだという。(略)値上げ理由をうのみにできない。
火力発電にはLNGや石炭、石油が使われ、LNGが四分の三を占めるが、そのLNG調達には不可解な点があまりに多い。輸入LNGの六割は電力向けで、昨年十二月の購入価格は百万Btu(英国熱量単位)当たり約十六ドル。ところが、欧州は約十ドルで輸入し、米国は自国の地中に堆積した頁岩層からのシェールガス生産が始まり、三ドル前後と極めて安い。
ドイツはパイプラインで輸入するロシア産と、LNGで輸入するカタール産などを競わせて値引きを迫れるが、日本には産ガス国との間を結ぶパイプラインがない。
電力業界は高値の理由をこう説明しているが、同じ条件下の韓国は日本企業が投資したロシアのサハリン2から日本の半値以下で輸入し、三年後にはガス輸出国に転じる米国とも安値で契約済みだ。なぜ電力業界は、のほほんと大手を振っていられるのか。主たる理由は原燃料費調整制度の存在だ。(略)
つまり、日本の電力会社は、いくら燃料価格が変動しても、値上がり分は電気料金に自動的に上乗せできる「原燃料費調整制度」という“打ち出の小槌”を持っているのだから、企業努力で買い付け値段を下げようという難儀な交渉など、最初からする気はないのだ。その分、我々の電気料金は高くなる。世界市場でのLNG先物取引価格は、どんどん下がってきているというのに、である。
実際にどれくらいLNGの価格は下がっているのかは、次の資料を参照してほしい。
http://twitpic.com/8xccbk(@grail_corpさんが教えてくれた資料)
また、遅ればせながら、朝日新聞社説(3月13日)もこう書いている。
燃料の多くは、液化天然ガス(LNG)と石炭だ。なかでもLNGは日本の輸入量全体の6割が電力向けだ。
問題は、震災の前から電力会社を中心とした日本勢が、このLNGを「高値買い」し続けていることにある。
天然ガス市場は今、大転換期を迎えている。シェールガスという岩層に豊富なガスが、各地で採掘可能になった。先行する米国では劇的に値段が下がり、いまや日本の輸入価格の6分の1ほどで流通している。世界のガス市場も低落傾向にある。
ところが、日本勢が買うLNGは下がらない。原油価格に連動した値決め方式で買い続けているためだ。(略)欧州勢は産出国と粘り強く交渉し、市場を使いやすくする努力も重ねて、日本の7割前後の価格で仕入れつつある。
1月には、韓国勢が米国とのシェールガス売買契約にこぎつけた、とのニュースが流れた。米国価格との連動なので、船賃などを加えても調達コストは大きく下がる。(略)
東京新聞をなぞったような内容だが、それはとにかく、「原発が止まって火力に頼り、その輸入燃料代が増大したために電気料金を上げざるを得ない」という電力会社の論理は、すでに破綻している。それでもなお、「原発停止→燃料輸入費増大→日本経済の破綻」という偽りの論理にしがみつく企業や官僚、そして情けない政治家たち。
肉体的危機感覚を失い、既成の旧い思考とコンピュータの命ずるままに動くことが社会に貢献することであり、同時に社会の重要な構成員となることだという思い込み。男社会の典型がここに見えている。そして「原発」こそが、その歪んだ男社会の「社会構成要員意識」の産物なのだ。
繰り返すが、これは僕の勝手な仮説である。
久々に青空が見えた春分の日。何も予定がなかったので、少し足を伸ばして立川市の大きな公園へ散歩。
ほんとうに遅かったとはいえ、春がようやく微笑んでいた。広場の子どもたち、絵を描く人、池のボート、水辺のハクセキレイ、日向ぼっこの野良猫、白梅と紅梅…。
穏やかな春、であってほしいのだけれど。
鈴木耕さんプロフィール
すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。
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