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2011-11-16up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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奇跡は、2度は起こらない…

 11月11日、悪夢と恐怖の原発事故から8ヵ月が過ぎた。ほんとうに、悪夢のような8ヵ月だった。いや、今だって僕は、悪夢の中を漂っているような気がしている…。
 翌12日、政府と東京電力は原発事故の現場を“初めて”報道陣に公開した。当日のテレビニュース、13日の新聞各紙は「初の原発事故現場取材」を一斉に報じた。

 放射能爆発の凄まじさは、8ヵ月が過ぎた今でも、まさに肌に粟を生じるような光景を現前させている。
 テレビ画面や新聞の写真が映し出す光景の恐怖は、僕の体を震わせる。爆発事故直後の、あの頭の芯が冷えていくような思いが甦る。もう老境に足を踏み入れてしまった僕が、生まれて初めて感じた、言葉にできない真の怖さ、恐ろしさ。

 グニャリとひん曲がった鉄筋の骸骨のような残骸、吹き飛んだ原発建屋のコンクリートの壁、崩れ落ちた機器の数々、まだ放射性物質を放出しているに違いない剥き出しの核燃料プール、腹を晒したままの車、傾いたタンク群…。これが、世界に誇った日本の“最高精密先端技術”の成れの果てだ。あの映画『猿の惑星』のラストシーン(海辺の傾いた「自由の女神」像)に酷似していた。
 取材陣は、放射線量の高さのゆえに、バスから降りての取材は許されなかったという。それでもバスの窓越しから撮られた画像の数々は、「現代の地獄」を見事なまでに捉えていた。それはそれで、意義のある取材だったに違いない。

 だが、僕には「初の原発事故現場取材」という言葉については、ある種の疑義がある。
 まず“初の”という言葉だ。それは、言葉を変えれば「既成大手マスメディアの取材としては初の」という形容に過ぎない、ということを確認しておく必要がある。
 なぜなら、これ以前に「潜入取材」を敢行していたジャーナリストたちが少なからず存在するからだ。それらのルポルタージュは「週刊ポスト」等の週刊誌などにも掲載されたから、ご存知の方も多いだろう。
 “潜入”するまでのスリリングな過程を克明に記述した単行本もすでに出版されている。『福島第一原発潜入記 高濃度汚染現場と作業員の真実』(山岡俊介、双葉社、1300円+税)だ。この本を読めば、原発事故現場がいかに作業員不足に苦悩しているか、その結果、いかに杜撰な管理しか行われていないかが、手に取るように分かる。なにしろ、どうやって潜入できたを、著者の山岡氏は詳しく書いているのだから。
 このような「決死の覚悟」で潜入取材したフリー・ジャーナリストたちのルポをまるで無視するように「初の現場取材」を繰り返す大手マスメディアの言い草は、もう馴れているとはいえ、呆れるしかない。今回の事故現場取材は、決して“初”などではなかったのだ。

 もうひとつの疑義。それは、フリー・ジャーナリストやネットメディアの記者たちを、今回の政府と東電主導の取材から一切排除したことだ。政府や東電側が、大きな影響力を持つ大手マスメディアを優先したい気持ちは分かる。
 だが、爆発事故からこれまで、隠されていた情報や、間違えて(意図的に?)流された数値の矛盾などを徹底的に追及してきたのは、実は大手マスメディアよりもむしろ、フリーのジャーナリストや記者たちだった。それを認識しているがゆえに、東電も政府も、彼らフリーの取材者たちには、何を暴露されるか分からない危惧を抱いていたのだろう。
 自らのコントロール下にない取材には、徹底的に忌避感を持つ。今度の原発事故で見せた東電や政府の一貫した姿勢だった。僕の個人的な感想ではない。たったひとつ、メルトダウンの発表だけをとってみても、それは明らかではないか。メルトダウンの可能性を指摘し続けてきたのは、雑誌やネットなどであり、東電&政府御用達のマスメディアではなかった。それは隠しようもない事実だ。

 (この文章の後半で引用する福島第一原発の吉田所長の会見では、メルトダウンは、現場では事故直後から認識されていたことが語られている。この吉田所長の言葉は、東電が事故から3ヵ月も経ってから、渋々メルトダウンを発表したのが悪質な情報隠蔽であったことを裏付ける決定的な証言である。吉田所長が認識していたことを、東電幹部が知らないはずはない)。

 そのことを踏まえて考えれば、フリー取材者たちへの政府東電の嫌悪感は露わだったというしかない。だから、今回の取材からフリー取材者たちを完全排除したのだ。
 むろん、政府東電は「人員的に余裕がないので、人数制限しただけ。フリーの方たちを排除したのではない」と言い訳した。だがそんなことは、バスの台数を増やせば済んだ話だ。バスを降りての取材はできないのだから、もう1台バスを増やすことなど排除の理由にはならない。

 東電も政府も、大手マスメディアにはこれまで十分に配慮してきた。つまり、大手マスメディアの記者たちに対しては“仲間意識”さえ持っていたのだと思う。
 今回の取材について、政府・東電側は「取材画像のチェック」を、取材陣に要請したという。それについて、朝日新聞(11月13日付)は、次のように書いている。

 内閣官房は当初、核テロ対策のため、原発敷地内で報道陣が撮った映像や写真を東電側が後で見て、場合によっては削除を求めると説明した。通常の原発取材では、核テロ対策のため撮影する場所は制限されることはあるが、写真を見せることはない。朝日新聞は「憲法で禁じられた検閲にあたるのでは」と指摘。結局、撮影場所の限定にとどまった。

 さすがに“マスメディア側の指摘”によって“検閲”は行われなかったらしいが、そういうことを要請してくること自体、「仲間なんだからいいだろう」的な意識が政府や東電側にあったとしか思えない。さらに、それを言わせる体質がマスメディア側にもあったということだろう。
 この朝日の書き方(「指摘」)も、僕は気に入らない。本来ならば「それは検閲ではないかと、取材陣は強硬に抗議して撤回させた」くらいの状況でなければおかしい。「指摘を受けて東電側も撤回」だと。まさに馴れ合いではないか。そんな場面はフリー記者には見せられない。なるほど、フリー取材者たちを排除したわけが理解できる。

 それにしても、今回の事故がほんとうに言葉通りの「危機一髪」であったことが、福島第一原発の吉田昌郎所長の記者会見での言葉で分かる。同じ日の朝日新聞を引用する。

 吉田所長は白い防護服で取材に応じ、「3月11日から1週間で死ぬだろうと思ったことは数度あった」と事故直後を振り返った。

 吉田所長は、最初に1号機で爆発があったときのことにふれ、「どういう状況かわからず、最悪、格納容器が爆発して放射能が出てくることも想定した。メルトダウン(原子炉内の燃料が溶けてそこに落ちる炉心溶融)が進んで、コントロール不能になってくれば、これで終わりだという感じがした」と述べた。

 危機的な状況からいつごろ脱したと感じたかについては、6月いっぱいまでかなり大変な思いをした。本当に安定してきたのは7、8月」と明かした。(略)

 吉田所長の取材は約15分。事故時の詳しい状況も政府の調査に応じていることを理由に答えなかった。

 同記事の「吉田所長との主なやりとり」によれば、次のようにも言っている。

 (略)1号機の爆発があったときに、どういう状況で爆発したのか免震重要棟では分からなかった。現場から色々けがをした人間が帰ってくる状況で、最悪、格納容器が爆発しているということになると、放射能が出てくる、コントロール不能になるという恐れがあった。

 3号機の爆発もあった。最後に2号機の原子炉になかなか水が入らないこともあり、一寸先が見えなかった。最悪、メルトダウンが進んで、コントロール不能になってくれば、これで終わりだという感じがした。(略)

 なんとも歯がゆい会見ではないか。各社の質問に、吉田所長はたった15分間の対応。あとは「政府調査」を理由に答えない。“最悪”を繰り返すけれど、その詳しい状況には触れない。
 命を賭して事故収束にあたっていることは理解する。だが、まず国民に現場からの詳しい説明をするのが、現場責任者としての当然の責務ではないのか。しかし吉田氏には、それができなかった。
 僕の推測はこうだ。政府や東電幹部から「余計なことは話すな」と釘を刺されていたのだろう。吉田氏自身は、本当のところを話したいと思っていたはずだ。自分の命がけの行動を、自らの言葉で直接、多くの人たちに伝えたいと思っていたはずだ。
 記事の中には、事故を起こしたことについて、吉田所長は「福島県のみなさま、日本国民のみなさまにご不便、ご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げたい」と語ったともある。そうであるならば、事故の真の原因とその対応を、現場責任者の口から直接語ることこそが、ほんとうのお詫びではなかったか。だが、それは“上から”封じられたのだ。そうとでも考えなければ、たった15分間の、ほとんど事実関係に触れない会見であったことの理由がつかない。
 吉田所長の心中を推し量れば、その悔しさは相当のものだろう。テレビ画面の中の彼の表情の険しさがそれを物語っていた、と受け取るのは僕の考えすぎか。

 吉田所長は「死ぬだろうと思ったことは数度あった」と語っている。考えるのも恐ろしい仮定だけれど、もし、吉田所長以下の現場の人たちが彼の言葉通りに死んでいたとするならば、原発は暴走を繰り返す凶悪なモンスターと化し、チェルノブイリどころではない最高度線量の放射性物質を噴き出し続け、それは現在も続いていたはずだ。もはや、人智の及ばない荒れ狂う悪魔。
 もしそうなっていたら、死者は吉田所長ら現場だけにとどまらず、周辺住民は言うに及ばず、数百キロ離れたところでさえ多くの死傷者が出ていたに違いない。
 菅首相(当時)が事故当初、「東北、東日本はもはや住めなくなる可能性も」などと発言したとして、すさまじい批判を受けたけれど、実は菅首相の言葉は間違っていなかったのである。
 東電が必死に隠蔽しようとし、それに加担した御用学者どもがマスメディアを使って「被害軽少説」を垂れ流し、それを追認して「直ちに健康に影響はない」を繰り返した政府機関が、実は吉田所長らの命をかけた作業に、かろうじて奇跡的に救われただけではないか。

 繰り返す。
 我々日本人は、かろうじて奇跡的に生き延びただけだ。いや、日本全国(のみならず世界)にばら撒かれた放射能が、これから何年か経ってから悪魔の牙を剥き出すかもしれないことを考えれば、単純に“生き延びた”などとは言えないのかもしれないけれど…。
 それでもなお、「原発推進」「再稼動」を言う者たちがいる。「奇跡は2度起こる」とでも言いたいのか。2度起きたら、それは奇跡などではない。特に、愚か者の上に奇跡は2度と起きないのだ。
 日本政府は、原子炉メーカーの後ろ盾となって、原発輸出に懸命だ。武器商人を“死の商人”というけれど、ならば日本という国を何と呼べばいいのだろう?
 日本人は「愚か者」なのか。寂しい…。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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