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2011-09-21up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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野田首相の「恥知らず国連演説案」

 9月19日の東京・明治公園の「さようなら原発」大集会は、見事な結集だった。僕は1時過ぎに、もよりの千駄ヶ谷駅に着いたのだが、凄まじい人波。ホームにも出口へ続く地下道にも人が溢れ、駅の外へ出るまでになんと30分近くもかかってしまった。
 おかげで、明治公園に着いたときには中へ入れず、日本青年館わきの空地にようやく入り込んだ。そこにも続々と人が押し寄せ、ほとんど満員電車のすし詰め状態。この人数は尋常じゃない。日本では久々の大集会。主催者は、後で参加者数は6万人と発表したようだが、とてもそんな人数じゃおさまらないと思う。
 僕は、2007年「教科書書き換え問題」、2010年「米軍普天間飛行場移設問題」のふたつの沖縄県民大集会に参加している。「教科書」は11万人、「普天間」は9万人の参加者と発表された。僕の目には、今回の「さようなら原発」集会は、その沖縄のふたつの大集会よりも参加者が多いと見えたのだ。
 公園の広さから計算して、収容人数を4万人ほどと割り出す人もいるが、それはひとりひとりがゆったりと座っての数。参加した方ならお分かりだろうが、会場内はほとんど満員電車並みの混雑ぶりだった。とても4万人とは思えない。
 また、明治公園に入りきれず、周辺の道路や空地、東京体育館前などに座り込んでデモ出発を待っていた人たちの数も、主催者は把握しきれていなかったのかもしれない。
 むろん、警察発表の2万7千人などというのは論外。どうも、警察のコンピュータは、人間の足はひとりに6~7本ほどついているとして計算しているらしい。
 その警察発表の数字を、なんの疑いも持たずに伝えるマスメディアもあった。この連中は、自分の目で物事を見ることをしない。ヘリコプターからの写真を見れば、それだけでも警察発表の数字のおかしさが分かるはず。検証もせずに警察発表をそのまま伝えるのであれば、もう報道機関という名前を降ろすべきだ。違いますか、NHKさま、フジテレビさま、産経新聞さま、その他エトセトラさま。
 それにしても、朝日新聞の今回の大集会に関する記事は冷たかったなあ。一面で、ほんの少し触れただけ。外国のデモや集会をあれだけ大きく扱うのに、なぜ日本の「脱原発デモ」に関しては冷淡なのか。「提言・原発ゼロ社会へ」を高々と謳いあげた社説はポーズだけだったのか。

 一連の原発報道に関しては、東京新聞が抜きん出ている。小さな記事にも血が通っている。その東京新聞(9月19日)が、野田首相の22日の国連演説の予定稿を以下のように報じている。

 野田佳彦首相が二十二日にニューヨークの国連本部で開かれる「原発の安全性と核の安全保障に関するハイレベル会合」で行う演説案全容が十八日、判明した。東京電力福島第一原発事故を受け「原発の安全性を最高水準に高める」と表明、同時に「安全でより信頼性の高い原子力エネルギーの確保は引き続き必要だ」と直ちに「脱原発依存」へ移行しない立場を明確にする。事故原因を徹底検証し、結果は国際社会への全面開示を約束する。(略)

 「バカも休み休み言え」とか、「恥知らず」とか、「どのツラ下げての安全性か」とか、「蛙ならぬドジョウのツラにションベン」とか、「舌の根も乾かぬうちに」とか、「二枚舌おとこ」とか、ついでに「おまえの母ちゃんデベソ」などまでくっつけて、温和な(?)僕としても、異例の口汚さで罵倒したくなる中身だ。
 「安全性を最高水準に高める」だと? どうやって?
 人為的ミスをどう防ぐのかの手だてさえ提示できずに、「最高水準の安全性」などと口走ってはならない。「最高水準の安全」は、人間の操作がいっさい必要ないのなら、達成できるかもしれない。だが、人間が操作を行う限り、何らかのミスは必ず起きる。
 東電が恥ずかしげもなく国会へ提出した真っ黒の「墨塗り作業手順書」が、それを物語っているではないか。あのデタラメ東電でさえ、「シビア・アクシデント(過酷事故)用作業手順書」を作っていたのだ。だが、それが事故防止に役立ったか。そんなものは毛1本ほどの役割も果たせなかったではないか。
 どんなに綿密で精緻な「安全確保策」を作ろうと、それを裏切る事象は人間が関わる限り必ず起こる。その事故が、回復可能なものや場所で起きるのなら、かろうじて容認もできよう。だが、原発事故は他の機械技術とは根本的に違う。1度事故を起こせば、取り返しのつかない放射能汚染を招いてしまうのだ。回復不能だ。
 「死の町」(!)と化した福島原発周辺の状況を理解しているのか、野田首相よ!
 野田首相は「事故原因の徹底的検証」などを付け足して、なんとか国際的な面目を保とうとしているようだ。だが、その「徹底的検証」が終わらないうちに「安全でより信頼性の高い原子力エネルギーの確保」などと言い出せる、その神経が僕には理解できない。
 百歩譲って、「事故原因の徹底検証」が済み、原因の完全解明がなされた上で、その原因を取り除く方法を提示してからなら、その言い方を受け入れる人もいよう(僕は受け入れないけれど)。だが、それが済みもしないうちに「原子力エネルギーの確保」だと? 言葉の使い方を、根本的に、徹底的に、完璧に、アホらしいほど、間違えている。
 この首相の目にも耳にも、6万人以上(!)の人々の叫びや悲しみは届いていない。ドジョウは泥の中。泥の中はぬくぬくと、原発の余熱で暖かいか。
 それにしても、あの凄まじい事故のフクシマの国からやってきた首相が「原発を、これからもやります」と語るのを、世界中の人々はいったいどう思うだろうか。
 「えっ? 原発はもう止めます、の間違いじゃないの?」と驚くだろう。そして、日本という国は、どこかおかしい、奇妙で不気味な国民だ、と感じるに違いない。
 「あれほどの事故を引き起こしてもなお、原発を運転し続ける。命よりも経済が大事な国なのだ、日本は…」と。

 原発をやめるのか続けるのか。答えはふたつにひとつしかないはずだ。対照的な記事がある。まずは毎日新聞コラム「風知草」(9月19日)の山田孝男記者の文章。

 3.11大震災は2種類の日本人を生み出したと思う。一つは一刻も早く震災前へ戻り、もういちど繁栄をめざそうと急ぐ人々。もう一つは、もはや後戻りなど不可能、暮らしも生き方も根本的に変わらざるを得ないと感じている人々だ。
 野田首相はどちらのサイドに立つのか。(略)13日の所信表明演説にこういうくだりがあった。「原子力発電について、脱原発と推進という二項対立でとらえるのは不毛です」
 この言い方は一見もっともらしいが、正心誠意の論とは言えまい。なるほど感情的な言い合いは不毛だが、二項対立を体よく棚上げすれば問題を突き詰めることはできない。(略)
 「中長期的には、原発依存度を可能な限り引き下げていく」と強調する一方、「新興国を中心に原発導入の流れが加速してい」るのだから、「短兵急に原発輸出を止めるべきではない」と書いている(「文芸春秋」9月号「わが政権構想」)(略)
 つくろいきれない矛盾が見え隠れしている。原発の根源的な危険に気づいてそれを減らそうとする国内対策と、危険でも買ってくれるなら売りましょうという輸出対策。「歴史は3.11から変わった」と感じている人々と、「歴史に断絶などなく、経済大国に復活あるのみ」と信ずる人々が織り成す矛盾だ。(略)

 もう一つは朝日新聞(9月19日)。

 「推進派と反対派の分断」が問題視されてきた原発論議。そこに「推進/反対」の二項対立を超えた動きが見え始めている。両派が同じテーブルにつく場を設ける動きがあるほか、「何でも反対」「何でも賛成」ではない"第三項"的な立場も現れている。
 「『脱原発』と『推進』という二項対立で捉えるのは不毛です」。野田佳彦首相は13日の所信表明演説で述べた。だが「推進/脱原発」は二項対立なのか。
 『原子力の社会史』で知られ、福島第一原発事故では政府の事故調査・検証委員も務める吉岡斉さん(科学技術史)は、「違和感がある」と語った。脱原発にはそもそも第三項的な性格があるのに、と。
 原発の存在を否定する「反原発」と異なり、原発が一定の役割を果たしている事実を認識した上で脱却を図る、という柔軟な発想が特徴だからだ。老朽化するまでは既存原発の継続を認める一方、新増設を禁止し、段階的に廃止へ進む発想が典型だという。(略)

 この記事の言わんとする方向はお分かりだろう。研究者の言葉を引きながら、「既存原発の継続」を示唆する。それが"第三項"なのだとして、「不毛な二項対立からの脱却」を説くのだ。
 これが朝日新聞の言う「提言・原発ゼロ社会」なのか。
 僕は、「風知草」の「二項対立を体よく棚上げすれば問題を突き詰めることはできない」とする論に同意する。朝日記事の示唆する"第三項"とは、結局、もう40年ほどは原発を運転し続ける、ということ意味するに過ぎない。
 現在、電力会社は原発の寿命を、勝手に40年以上(かつては30年としていたのに、いつの間にか寿命が延びている)に延ばしてしまった。最も新しい原発は北海道電力の泊3号機で2009年運転開始だから、40年の寿命と仮定すれば、あと38年間は運転し続ける。つまり、少なくとももう38年間は日本から原発はなくならないということだ。気が遠くなるほど先の話。
 ちなみに、2000年代に運転開始した原発は、北電・泊3号機、東北電力・東通1号機、同・女川3号機、中部電力・浜岡5号機、北陸電力・志賀2号機などがある。これらが"老朽化"するのは、2040年代に入ってから、ということになる。まだ30年以上も先の話だ。それまで、日本の原発は動き続ける…。
 朝日記事の言う「第三項=既存原発の運転継続」とは、実はそういうことなのだ。
 もしその間に、第2の福島事故が起きたらどうするのか。日本では、今回の大地震により巨大な地層変化が起き、いつ次の大地震が襲ってきてもおかしくないような状況にあると、多くの地震学者が指摘している。なぜ、それらの警告に耳を傾けないのか。
 さらに運転を続ければ、必然的に使用済み核燃料という強力な毒物が増えていく。今回の福島事故で、放射性汚染された瓦礫の処理さえどうしていいか分からないという現状なのに、処理方法も見つかっていない強烈な「核のゴミ」をどうしようというのか。日本はすでに、数千発分の核兵器の原料を貯えている。それが、ますます増えていく。

 妙なレトリックに騙されてはいけない。「やがて自然に原発はなくなる。対立ではなく、妥協点を見つけよう」。
 ウソをつけ! 彼ら(隠れ推進派)がいう妥協点とは、結局、原発論議を30年以上も先延ばしにするための、巧妙な罠でしかない。
 僕は、一刻も早い原発からの撤退を主張する。それでも「原発が必要だ」と主張するのなら、

  • あと30年間は絶対に今回のような大地震は起こらないという証明
  • 増え続ける放射性廃棄物の処理方法の確立
  • 「死の町」と化した福島原発周辺地域の完全な除染
  • 被曝した子どもたちの十分な治療方針及びその方法
  • 原発事故被災者への完全な被害補償

 少なくとも、この5項目にきちんとした答えを提示せよ。できないのなら、僕は「原発必要論」を絶対に認めない。
 もう2度と「フクシマ」を繰り返してはならない。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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