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2011-07-20up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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原発をめぐる現況

 福島原発事故は、まったく改善の兆しを見せていない。そして、原発を取り巻く事態は、ますますわけが分からなくなっている。どうなるのか、誰も将来を見通すことができない。
 アトランダムに、最近の原発状況を列挙してみよう。

◎事故収束への工程表

 政府と東京電力は7月19日、3カ月前の4月18日に発表した「事故収束への工程表」について、問題は残しつつも、そのうちの「ステップ1」の目標はおおむねクリアした、と発表。
 だが、詳細に見てみると、事故を起こした福島原発そのものの状態は、少しも前進してはいない。工程表の目玉とも言える「水棺」(原子炉を水で満たして冷却する)計画は、すでに諦めてしまったし、次の要だった「汚染水浄化装置」は、ひとつの不具合を直すと別の箇所が破損するという、まるでもぐら叩きのような故障を繰り返し、当初の予定どおりには稼動していない。
 つまり、汚染水を浄化し、それを循環させて原子炉の安定的冷却に使用する、という計画はまだ道半ばという状態なのだ。困難な部分を先延ばしにして、とりあえず「ステップ1を達成した」と言っているだけに過ぎない。
 4号機の水素爆発の謎はいまだに解明されておらず、3号機の猛毒プルトニウムやストロンチウムの拡散状況もはっきりしない。むろん、詳細なデータを東電が持っているのは確実だが、それを出そうともしない。何を恐れているのか。
 原発事故をめぐる状況は、少しも改善されていないのだ。

◎許せない資源エネルギー庁の監視工作

 原発推進の総本山・経産省の資源エネルギー庁が、妙な活動を始めた。なんと「反・脱原発」のネット上の意見を監視しようという怪しげで危険な動きだ。資エネ庁のHPに次のようなものがある。

「仕様書」
1.件名 平成23年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(不正確情報対応)
2.事業目的
 ツイッター、ブログなどインターネット上に掲載される原子力に関する不正確な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害を防止する。(3以下は略)

 こういう"事業"をする業者を入札で選ぶ公告である。どう読んでも、「反原発運動を監視、取り締まるための情報集め」としか思えない。この「仕様書」の中には、「Q&A集の作成に際し、必要に応じて、原子力関係の専門家や技術者等の専門的知見を有する者(有識者)からアドバイス等を受けること」という記述もある。原発推進の学者(?)や文化人・芸能人を使え、と言っているわけだ。資源エネルギー庁(=経産省)の頭の中は、福島事故以前とまったく変わっていない。
 「正確な情報へ導く」などとよく書けるものだと思う。これまでどれだけ情報を隠し続け、逆にいかに多くの虚偽情報を流してきたか。何を指して"正確な情報"などと言えるのか。そこへ"導かれた"結果がこの惨状ではないか。
 それにしても、この文章中の「不適切な情報」とは何か? 当然のように、それは「反原発、脱原発」の意見だ。それらを監視し、やがては取締りの対象にする。電力会社と公安警察が密接に結びついていることは、さまざまな面で明らかになっている。そこへさらに、資源エネルギー庁は「危険人物情報」を流そうとするのだろう。自らが引き起こした「史上最悪の原子力事故」に目をつぶり、反対意見を潰そうとする。
 こんな"事業"に、我々の税金を投入する…。
 権力が腐敗すると監視が強まる。許せない。

◎疑惑、虚偽、隠蔽、世論工作…

 資源エネルギー庁がどう言おうと、原発についてのウソや隠蔽、やらせ、虚偽などが次々と明るみに出て、もはや電力会社や政府の言うことを、まともに信じる国民はほとんどいなくなった。恐るべき不信の構造。
 九州電力による「玄海原発に関する住民説明会」のヤラセ事件。この根の深さは奈落の闇だ。最初は「課長級の社員の先走り」などと九電側は弁明していたにもかかわらず、副社長らが陣頭指揮を執っての世論工作であったことがバレてしまった。しかも、ヤラセが発覚した後に行われた2度目の住民説明会にさえ、九電は自社や下請け会社社員を動員していたことも判明。それだけにとどまらない。九電は、2010年の鹿児島県川内原発をめぐる住民説明会でも、同様のヤラセをしていたことまで明らかになった。もう、底なしの堕落というしかない。
 当然のことながら、九州電力だけがこんなことをしていたわけではない。ほかの電力会社とて同じこと。
 「週刊文春」(7月21日号)が「東京電力元社員が明かす『ペテン説明会』の全手口」という記事で、克明にヤラセの実態を報じている。電力会社そのものが根っこから立ち腐れている。もっとも、それは電力会社だけではない。
 かつて小泉政権時代に、政府の主催で「タウンミーティング」という住民と政府との"対話集会"が各地方で70回以上も開かれたが、そのうちの多くが例の「電通」の仕掛け。質問の多くが"ヤラセ市民"による政府にとって都合のいい内容だったことが発覚して問題化、ついには内閣府の「タウンミーティング担当室」は廃止されてしまうという情けない事件があった。2006年のことである。
 政府が率先して"ヤラセ"を行う。電力会社がそれを踏襲する。その間で広告代理店が暗躍する。構造は同じなのだ。

◎朝日新聞が方針を大転換?

 7月13日、朝日新聞は突如、一面に大きな社説を掲げ「いまこそ 政策の大転換を 提言 原発ゼロ社会」と打って出た。さらに中面では1ページ全面を使って、「自然エネルギー政策 風・光・熱 大きく育てよう」「新たな電力体制 分散型へ送電網の分離を」との提言を示している。
 その一方で、反省の弁(?)らしきものも最後段に書いてある。「推進から抑制へ 原子力社説の変遷」という文章だ。しかし、僕はこの最後の文章に大きな違和感をおぼえたのだ。
 朝日新聞の原発に関する論調は、これまで「YES, BUT」、つまり「原発は認める、でも慎重に」というものだった(その真意は「安全性を全面的にPRして原発を推進すべき」でしかなかったのだが)。
 その根底には、1950~60年代にかけて朝日新聞の原発論調を「推進一色」へ染め上げた当時の論説主幹・岸田純之助氏とその論調を継承した大熊由紀子論説委員の存在があったのだ。この2人の名前は、日本の原子力報道史上、決して忘れることのできないものだ。
 当時、まだリベラル色の強かった朝日新聞が、原発推進に果たした役割は大きい。「朝日の言うことなら…」と引っ張られた読者の多さを考えれば、現在のテレビの影響を遥かに凌ぐだろう。
 今回の朝日の「反省文」には、そのことがすっぽりと抜け落ちているのだ。「反省文」では「転機はチェルノブイリ」と書いているが、それはこの文にもあるように、せいぜいが「立ち止まって原発を考えよう」というくらいのものでしかなかった。この程度の「反省」で、これまでの論調を総括し終えたとするのであれば、僕にはまだ朝日新聞の「大転換」というのを、そのまま信じるわけにはいかない。
 もっと痛苦な、返り血覚悟の自己検証を期待したいのだが、無理か…。

◎虚偽と隠蔽の原発の歴史

 そんな朝日新聞だけれど、見るべき記事もある。7月17日付で一面トップに次のような記事を掲げた。

 政府が1955年、原発を導入するために初めて派遣した海外調査団の報告書が、原子力委員会の設置を推進する内容に偽装されていたことがわかった。作成に関与した旧通商産業省の初代原子力課長(故人)の偽装を認める証言が、文部科学省の内部文書に記録されていた。(略)

 詳細はこの記事を参照してほしいが、原発というものが、そのもっとも初期の段階から"偽装工作"にまみれていたことの証しだ。「虚偽と隠蔽の原発の歴史」は、原発という事業の開始時からすでに始まっていたのだ。
 初代委員長に就任した正力松太郎氏の影がちらつく。
 同じような隠蔽に関する記事は、東京新聞(7月13日)にもあった。引用しておく。

(見出し)
18年前、全電源喪失 検討 
安全委 幻の報告書 「考慮不要」の指針追認 炉心損傷の恐れ認識

 (記事)
 原子力安全委員会のワーキンググループ(WG)が一九九三年、炉心損傷を招く可能性があると認めながら、「考慮する必要はない」とした国の安全設計審査指針を追認する報告書を出していたことが分かった。安全委は報告書を公表せず、その後の安全対策にも生かしていなかった。
 安全委の班目春樹委員長は「『SBO(全電源喪失)を考えなくてよい』と書いたのは最悪」と認めた上で「前から安全規制改革をやっていれば事故は防げた。反省するところからスタートしないとだめだ」と述べ、経緯を検証する方針を明らかにした。(略)

 これもまた、報告書の隠蔽である。こんなことは枚挙にいとまがない。呆れ返るばかりだ。

◎各地の原発に黄信号

 「調整運転」と称して、実はフル稼働させていた福井県の大飯原発の冷却系統に事故が発生、7月16日にはついに手動停止に至った。緊急時に原子炉の炉心を冷却するために使うタンクの圧力が急に低下、このままでは、緊急時の炉心冷却が不可能になる恐れもあるためだ。
 このトラブルのため、大飯原発の再稼動は当分無理な状況になった。これで、福井県にある関西電力の11基の原発のうち、夏中には7基が停止することになる。
 また、同じ福井県の高速増殖炉「もんじゅ」(日本原子力研究開発機構)は、昨年8月に3.3トンもの重さの炉内中継装置が炉内に落下というシビアな事故を起こし、まったく手のつけようがなくなった。ようやく10ヵ月後の今年6月に引き揚げられたが、稼動などいつのことか。
 「もんじゅ」はプルトニウムとウランの混合燃料(MOX)を燃やして発電し、使用した以上の燃料を産み出すという「夢の原発」という触れ込みで1985年着工、91年試運転、95年臨界達成という経緯をたどったが、運転のたった4ヵ月後にはナトリウム爆発事故を起こして停止、以来1度も動いていない。これまでに1兆円以上の資金がつぎ込まれたというが、稼動できる見通しはまったく立っていない。さらに、こんなひどい原発の維持費として、現在でも1日5千万円以上の経費が使われている。むろん、その経費が我々の電気料金に上乗せされていることは言うまでもない。
 同様に、青森県六ヶ所村の核燃料再処理施設もまったく稼動していない。ここにはすでに2兆4千億円以上の経費がかかっているという。"という"と書いたのには理由がある。詳しいデータを電事連(電気事業連合会)も政府、経産省、資源エネルギー庁も示さないから、想定で計算するしかないのだ。
 しかしこの六ヶ所村の再処理施設にしたところで、日本中の原発から出る使用済み核燃料をすべて処理できるわけではない。最初から、その約半分の処理能力しかない設計なのだ。強烈な放射線を発し続ける使用済み核燃料は、ただただ蓄積されていくだけ。特に核兵器の材料となるプルトニウムが増え続けていることが、「日本の核武装疑惑」を招く要因ともなっている。
 後は野となれ山となれ、か。

◎原発をめぐるゴタゴタ

 高木義明文科相が15日の記者会見で「原発全体の見直しの中で、もんじゅのあり方も考えていかざるを得ない」と発言。各メディアは「もんじゅ中止も視野」と報じた。ところが、福井県の西川一誠知事は「私は何も聞いていない」と不快感を表明。高木文科相が「中止とは一言も行っていない」と釈明。「オレは聞いてない」「根回し不足」「オレに話を通さないのは不愉快」…。一体どこの町内会の話か? 
 しかし、もんじゅ所管の文科省がいつになっても動かない「高速増殖炉」に愛想尽かしをしているのは間違いない。お荷物を早く処理したいのだ。だが、金のなる木の原発をそう簡単に手放すわけにはいかない地元への配慮。こういう連中が日本の原発を動かしている。まさに、恐ろしくも滑稽な「ナントカ村騒動記」のドタバタ喜劇。いやはや。
 ところで、もんじゅについて、ひとつ付け加えておく。
 これを所管している日本原子力研究開発機構という組織は、旧科学技術庁の管轄だったが、科技庁が文科省に併合されたので、文科省管轄となった。この機構の理事長は鈴木篤之氏、班目氏の前の原子力安全委員会委員長だった人物で、ここへ天下りした。徹底的な推進派で、彼もまた東大工学部出身の「原子力ムラ」の村長格。
 利権の巣窟といわれる「原子力ムラ」は、今も健在なのである。

◎「美談」は疑え

 放射能汚染された牛の出荷が大きな問題になっている。牛の飼料の稲藁に基準値を大きく超える放射性物質が含まれていたため、食用牛が内部汚染されてしまったということだ。まだ問題化していないようだが、いずれ牛乳にも同じことが起きてくるだろう。時間の問題だ。その汚染牛が、なんと九州にまで出荷されていたという。日本列島の狭さを、つくづく実感する。
 だが、僕は疑問に思う。牛が汚染されていたとしたら、人間はいったいどうなのか? 稲藁が汚染されていたなら、当然のように野菜や果実なども汚染されているはず。人間はそれを食べているだろう。とすれば、住民たちの内部被曝もかなり深刻な状況ではないのか。
 報道はなぜ、そこに踏み込まないのだろう。
 さらに、人間の被曝について、僕にはどうしても納得できないことがある。それは、福島県の高校野球予選が郡山市で始まったことだ。
 球場では常時放射線量を測定し、3.8マイクロシーベルトを上回った場合は試合を中止するという。そんな状況下で、なぜ野球を強行するのだろう。3.8マイクロシーベルト以下とは言っても、被曝することに変わりはない。それが数年後にどういう結果を招くか、諸説あって断定することはできない。だが、少年たちの将来にまったく影響がないと断言できないのであれば、少なくとも会場を移すなどの対策を講じるべきではないか。それが大人の役割だろう。
 各テレビも新聞も、この予選を「復興を呼ぶ高校野球」だの「球児たちの歓声、被災地に響く」などと「美談」として伝える。それでいいのか。なぜ、放射能汚染の危険性を報じないのか。牛と比べては失礼だが、汚染が人間だけを避けるとは思えない。
 朝日新聞が「脱原発」へ大きく舵を切った。僕には批判もあるけれど、それ自体は歓迎すべきだと思う。しかし、夏の高校野球の主催者は朝日新聞社だ。ならばなぜ、福島県の高校球児たちの健康に配慮しないのか。一方で「脱原発」を謳いながら、一方では球児の被曝に思いを寄せない。どうしても、僕は納得できないのだ。
 ある大先輩のジャーナリストの言葉をいまも忘れない。
 「美談は疑え。美しい話が一方的に流され始めたときには、その裏を探ってみろ」。
 福島県の高校野球予選、美談だらけの報道が(無意識にではあれ)「原発事故隠し」に加担している、と考えてしまう僕は、ひねくれ者か?

◎菅首相の脱原発宣言

 菅首相の「脱原発宣言」がさまざまな批判と憶測を呼んでいる。"政局"のことは、僕にはまったく分からない。原発にしがみつきたい人たちが、菅批判の急先鋒になっているような気はするけれど。
 ただ、僕にもひとつだけ言えることがある。いままで「脱原発」を自らの言葉で語った総理大臣がいただろうか、ということだ。
 「脱原発の方向性は正しい。しかし、菅首相が言うからダメなのだ」
 「もうじき辞めると発言した首相が、日本の将来の方向性を決めてしまっていいものか」
 「菅首相は、まったく人望がないから、彼の言うことは信用できない」
 「あの脱原発発言は、政権にしがみつくためのその場しのぎの思いつき発言だ」
 「菅の言うことはころころ変る。前は原発推進だったではないか。いつまた変るか分かったものじゃない」
 まあ、こんなところが一般的な批判だろう。しかし、繰り返すけれど、いままでに「脱原発宣言」をした首相などいたか? このあと、そんな首相が出てくるか?
 菅首相の発言は、これ以降の首相の座を狙う人物を政策的に縛ったと思う。次の首相候補は、原発についての自らの姿勢を鮮明にしなければならなくなったのだ。それなしに、首相候補への名乗りを上げることは不可能になった。
 首相の座を狙う者は、「脱原発」「原発推進」「ある時期までの原発稼動」「いずれ原発脱却」など、いろいろなことを言うだろう。しかし、それは必ず国民から「ある時期とは、いつのことか?」「いずれ、というのなら、いつまでに原発から手を引くのか?」などと厳しい問いを投げかけられることになるだろう。
 そういう流れを作ったこと、その一点で、僕は今回の菅首相の宣言を認めようと思う。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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