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2011-03-23up
時々お散歩日記(鈴木耕)
39原発が奪ったもの…
11日から、新しい本は1冊も読んでいない。眠る前に、好きだった海外ミステリの文庫を開くのだが、文字が宙に躍るだけで、まったく頭に入ってこない。読めない。
小説は絵空事。その絵空事を楽しもうとする余裕が心になければ、小説世界へ入ってはいけない。現実は、絵空事をほんとうの絵空事にしてしまった。どんな想像も、揺らぐ大地と吠える海と、そして恐怖を撒き散らす「現代科学の粋」の前には無力だ。
現実は、絵空事をあっさりと越えてしまったのだ。
毎日、眠る前の僕の儀式だった1本の映画も、あれ以来、まったく観ていない。観られない。映画は読書より、もっと無理だ。
思い出す。原発事故を扱った映画、僕の記憶に残っているものの中で、フィクションでは3本。
ジェーン・フォンダの『チャイナ・シンドローム』、黒澤明監督『夢』、そしてドイツ映画『みえない雲』。
中でも『みえない雲』は、輝くような美しい風景の映像が哀しかった。原発事故の放射線から逃げようとする少年少女の物語。詳細は憶えていないが、すっかり髪の毛が抜けてしまった少女が、いとおしいほどきれいだった…。
だが、それを、僕はある種のファンタジーとして観ていたような気がする。「もしほんとうに起こったら、怖いなあ」と。起こることのないはずの事故、ということを前提にしていたような気がするのだ。
しかし、あの映画より、テレビが映し出す映像はリアルで非情だ。震災地から逃げ出す人々。その人々の上に降る季節はずれの雪…。現実が想像力を超えたとき、ほんとうの恐怖が現前する。
あまりの胸苦しさに、かつて録画してあったラグビー「スーパー15」を映し出してみたのだが、楕円のボールが宙を舞うだけで、どちらが得点したのか、まるで分からない。
僕は、またテレビニュースに向き合う。腹を立て、一方で脅えながら観続ける。
目を背けてしまう画面が多い。
赤いアノラック姿の少女が、必死に「おかあさーん!」と瓦礫の山に向かって叫んでいた。とても直視できない。漁師の妻らしき女性が「海はいやだ、海はもういらない…」と海に向かって呟いている。海を愛し、海に助けられて生きてきたはずの人の、あまりに痛切な言葉…。
一方で、原発の危機的状況が刻々と伝えられる。そのたびに、僕の胃がキリキリと痛む、悲鳴を上げる。カミさんが「もう観ていられない」と、寝室へ引っ込む。
僕らはどうすればいいのか、何ができるのか…。
パソコンに向かう。いろいろな情報を拾う。いい情報も、悪い事態も、パソコンの中で躍っている。
相変わらずの意見も多い。こんな事態を見せつけられてもなお、原発を擁護する。
「原発は必要だ」
「代替案を提示しないで原発反対を言うのは無責任」
「原発をなくして石器時代に戻るのか」
「原発反対を言うなら、お前はいますぐすべての電気を消せ!」
中には「これは原発の問題ではない。管理体制の問題なのだ」と、人間のせいにする意見もある。あの巨大な地震と津波の前で、どう管理せよというのだろうか。
「原発を止めたら、圧倒的な電力不足になる。今回の計画停電を見れば分かるだろう」というご意見。
だがかつて、東京電力はさまざまな原発内のトラブルや事故を隠していたことが発覚し、すべての原発を停止せざるを得なくなったことがある。その時に、停電は起こらなかった。すべての原発を止めても、電力が賄えるということが判明しているのだ。
以下のようなデータも、調べればすぐに分かる。
今回の地震での原発や火力などの停止により、供給能力は3450万キロワットと、震災前の5200万キロワットから大きく低下した。つまり、1750万キロワットが低下したことになる。
しかし、現在運転を休止している火力発電所の供給能力は、実は東京、千葉、川崎、茨城などの14基で、約900万キロワットに上る。現在の供給量とあわせれば約4300万キロワット。これは、なんとか計画停電を回避できる数字だと、東京電力自体も認めている。
ほかに手当ての可能性もあり、5000万キロワットまでは回復できそうだという。他の地域の電力会社からの応援も得られる。「圧倒的な電力不足」などにはならないのだ。
むろん、夏場の最盛期の電力需要にはまだ足りない。そこは、我々の節電で補うしかない。
ほかのところでも書いたのだが、僕は「自動販売機の停止」を主張する。日本全国に、いったい何台の自販機があるのか。調べたことはないが、数十万機はあるだろう。あれは大型冷蔵庫並みの電力を消費する。それを、せめて東京電力管内だけでも停止すれば、相当の節電になるはずだ。
冷たい飲み物を控えよう。そのくらいはできるはずだ。
腹立たしいのは、高みにたって批判する人たち。
「私は原発賛成でも反対でもない。もっと冷静に議論せよと言っているだけ」とか「賛成派も反対派も感情論になっているだけ」などと。
しかし、数十万人の人たちが逃げ出しているのだ。それはまさに、ディアスポラ(離散漂流)だ。故郷を捨てる。そして還れない。ただの一時避難とは違う。放射能汚染が続く限り、この人たちは自分の故郷には還れないのだ。
原発とは、そういう危険性を持った技術なのだ。そんな事態を目の当たりにして、なお「私は原発賛成でも反対でもない」と言える人の心が、僕には分からない。自分というものはどこにあるのか?
「自動車事故のほうが確率は高い」などというヤツは論外だ。車の事故で放射能汚染は起きるか。
知ったかぶりでの「代替案を示せ」論者は、ほとんどが知識を得る努力をしていない。さまざまな代案があることを知らずに批判する。
たとえば、コジェネレーション。これは、大きな工場などからの排熱を利用する総合エネルギー供給システム。
たとえば、燃料電池。すでに「エネファーム」などというCMでおなじみになりかけ、一般家庭への導入も始まっている。
たとえば、小規模水力発電。農業用水路などを利用して、数軒、数十軒分の小規模な電力を賄うシステムだ。農業地帯では、さまざまな試みが始まっているところもある。
たとえば、液化天然ガス(LPG)。これは熱効率が石油よりもよく、発散する炭酸ガス量も少ない。日本近海にも、かなりの天然ガスの埋蔵量が確認されている。
たとえば、メタンハイドレート。残念ながらまだ技術としては確立されていないが、膨大な埋蔵量が予想され、石油後のエネルギー資源として注目されている。
たとえば、バイオマス燃料。これは、トウモロコシなどを原料として燃料を作り出すことから、食糧不足に拍車をかけるとして、かなり批判もされた技術だが、最近では海藻などの本来は食用でない植物からも抽出されることが分かり、次世代エネルギーとしての期待も高まっている。
たとえば、太陽光発電。日本が高い技術力を持っている太陽電池については、説明するに及ばないだろう。
ほかにも、風力、地熱、波動など、さまざまなエネルギーの可能性はある。そう書いたら、
「そんなものは基幹電力にはなりえない。太陽光は不安定、風力は振動による環境への悪影響、火力は温暖化、他は未完成の技術。どれをとっても、原発には代えられない」
“知ったかぶり”の典型である。僕は、これらを原子力に代わる主力電源にせよ、と言っているのではない。さまざまな組み合わせで、原発一辺倒から脱却せよ、と言っているだけだ。たとえば、環境エネルギー研究所の飯田哲也さんの「風力発電計画」など、傾聴に値するではないか。
ではなぜ、これらのエネルギーがなかなか実用化されないのか。その背景には、「原発政策」があったのだ。
原発というのは、今回の事故でよく分かったように、一度稼動を開始したら、そう簡単には止めることができない。そして、一度止めたら、再稼動まではかなりの時間がかかる。そこが、小回りのきく水力や火力との大きな違いだ。
そのため、火力や水力は、つねに原発の「バックアップ機能」として使用されてきた。原発が動いているときは火力・水力は停止。原発が停止したときにその分の火力・水力が動かされる。そういう仕組みになっているのだ。つまり、あくまで原発が主役であり、火力・水力や他の発電システムは、主役を盛り立てるための脇役だった。
脇役に、そんな資金は使わない。原発には巨額の金がつぎ込まれた。
原発1基の建設費は、規模にもよるが火力や水力の数倍~数十倍。しかも、その費用には「廃炉費用」が含まれていない。1基の原発廃炉にかかる費用は、少なくとも2千億円以上といわれる。つまり、廃炉にするためには、火力や水力の発電所の建設費以上の金がかかる。
だから、電力会社は本来の規定以上の長期間、原発を稼動させようとしてきた。政府の原子力安全委員会なる組織は、ほとんど審査らしい審査もせずに、電力会社の「稼動延期要請」を丸呑みにした。
今回の福島第一原発は1971年の稼動から丸40年、かつては約30年と言われていた耐用年数を、すでに超えた老朽原発だったのだ。危険なのは分かっていたことだった。
しかもずるいことに、廃炉費用は「原発建設費用」には計上されていない。電気代には、当然その廃炉費用も加算される。原発による電気代は、決して他と比べて安くはない。
原発を運転し続けるためには、使用済み核燃料の処理が必要だ。そのため、青森県六ケ所村に「核燃料再処理工場」を建設中だった。
この工場は2009年の稼動を予定し、これまでに2兆2千億円という凄まじい額の金を投入している。だが、どうしてもうまく稼動せず、最近になって更に2千億円を追加した。あといくら必要になるか、誰にも分からない。もう18回も稼動延期を繰り返しながら、完成のメドさえ立っていないのだ。
このように、原発関連には湯水のように金をつぎ込んだ。当然のことながら、他の新エネルギーへの投資は遅れた。投資がなければ、新エネルギー研究は進まない。
実は、これが日本のエネルギー政策の現実なのだ。
軽々しく「代替案もなく原発に反対するのはおかしい」などと言わないで欲しい。原発に注ぎ込む金の3分の1でも新エネルギー開発費に回していたなら、こんな原発依存体質にはならなかったはずなのだ。
ここまで、懸命に書いてきた。
でも、書くことが虚しい。
今、東京は雨が降っている。被災地にも冷たい雨が、もしかしたら雪が降っているかもしれない。自然はどこまで非情か。
1986年4月26日。チェルノブイリ原発事故。日本にも微量だが放射能が飛散してきた。
そのころ、僕にはふたりの幼い娘がいた。本気で心配したのだ。この子たちに放射線の影響が出ませんように…と。いま、幼い子どもを抱えて避難している母親の脅えは、想像するのもつらい。
母親たちは、祈っているだろう。「この子に、せめてこの子にだけは、放射能が降りかかりませんように…」と。
この世に天国があるかどうかは知らない。しかし、地獄があることだけは、知らされた。
そして、その地獄を広げたヤツらが誰なのかも、知った。
最後に、大きな活字で付け加えておく。
もう一度地獄が来る前に、せめてまず
浜岡原発を止めろ!
中部電力の電力供給量は、浜岡原発を止めても需要を下回らない、ということを付記しておく。
鈴木耕さんプロフィール
すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。
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