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2010-06-30up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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保科正之という人物

 本来なら、東京にも降らなきゃいけないはずの雨が、みんな西日本に落ちてしまっているようで、九州などには大雨警報が出ているとのニュースが報じられています。
 当該地域のみなさん、ぜひお気をつけください。私も小さいころ、何度か洪水の被害にあいました。だから、他人事ではありません。ほんとうに、胸が痛みます。

 東京は、なんだか「梅雨の合間」ばかり。ムシムシとべたつく天候ではありますが、雨はあまり降りません。関東はどうも、今年は空梅雨気味のようです。小さいとはいっても日本列島。いろいろと場所によっては違うものです。

 カミさんがギックリ腰の初期みたいです。腰を抑えて、時々しかめっ面でうなっています。どうも、今使っている食卓の椅子が合わないらしい。まず、整形外科へ。
 そして、もう少し座りやすい椅子が欲しい、と言うので、近所の家具屋さんまで出かけました。しばらく選んで、なんとか座り心地のいい椅子を見つけました。あまり高くはなかったので、購入しました。
 料理や後片付けは、少しは私も手伝いますが、料理そのものはカミさんのほうが(私に比べて、という意味ですが)圧倒的にうまい。カミさんが動けなくなったら困るし、私の食生活にも影響します。多少の出費はガマンです。それに、自分で持ち帰れば送料の千円はかかりません。久々に車で家具屋さんまで往復。

 せっかく車で出たのだから、ついでに数キロ離れた「郷土の森公園」まで小ドライブをしました。「紫陽花まつり」が開かれていることを思い出したからです。カミさんも「座っているより歩いているほうが調子はいいみたい」と言うので、ふたりして公園散歩。公園の前の池には、古代ハス(発見者の名前にちなんで「大賀蓮」と呼ばれています)が、美しいピンクの大輪の花を開かせていました。

 それにしても、暑い。歩いているだけでも、じっとりと汗ばんできます。Tシャツの背中が汗で貼り付いているのが分かります。でも、確かに紫陽花には、こういうジメジメ季節がよく似合います。
 日曜日です。子どもたちは、もう噴水池で裸ンボ。カメラ片手に子どもを追いかけるお父さんやお母さんで、池の周りは大賑わいです。夏が、そこまで来ています。

 この公園には、博物館が併設されていて、その中には大きなプラネタリウムがあります。「宮沢賢治・星めぐりの世界」とか「銀河鉄道の夜」、それに「銀河鉄道999」なんてタイトルの上映会が、毎週開かれています。私もかつて、まだ幼かった娘たちを連れて、よく観に来たものです。でもそのころの私は仕事疲れ、ゆったりとした椅子に腰掛けて空を見上げていると、すぐに「星めぐりの世界」ならぬ「眠りの世界」へ誘い込まれて、出てきてから「お父さん、面白かったね」という娘たちに「うん、そうだったね」と苦笑混じりの返事をするしかなかったのでした。
 もうずいぶん、昔の話です。

 なぜプラネタリウムを思い出したかと言えば、先日読み終わった『天地明察』(冲方 丁=うぶかた とう、角川書店)が、頭に残っていたからでしょう。
 この小説の主人公は、渋川春海(はるみ)。江戸期に暦の改定(改暦)を行った若き俊英の物語です。“若き”とはいっても、23歳から45歳までの物語。紆余曲折波乱万丈。日本の歩みそのものを根底から変えてしまうくらいの重大な改革が「改暦」であったのです。
 たとえば、農業の作付けや収穫期の決め方、武家や公家行事のスケジュール、商業取引の決済時期まで、すべての人々の生活に密着していたのが「暦」です。これが間違っていれば、農作物の出来にも影響するだろうし、金の貸し借りや商売のあり方にも、大きなトラブルが起きることは必定です。
 実際に、それまで使われていた暦に、そういう齟齬が現れ始めていたことが、改暦の必然を促したわけです。それに挑戦した男の物語、というのがこの小説です。

 渋川春海は、幕府に仕える碁打ちでした。しかし、碁よりも算術に惹かれ、その算術を生かすための天体観測、要するに「星を見つめること」に心を奪われた若者でした。
 そんな若者のことが頭に残っていたから、私は散歩ついでにプラネタリウムを思い出したのでしょう。

 この『天地明察』、時代小説にありがちな剣豪もお家騒動も出てきませんし、血も流れません。でも、算術と天体観測、そこから導き出される改暦へのスリルはなかなかの味わいです。
 この中に、保科正之(ほしなまさゆき)という人物が登場します。春海に「改暦」という大事業を促した会津藩主で、第3代将軍徳川家光の異母弟、幕府安定にもっとも貢献したと評価される傑物です。
 保科は、それまで絶対の訓えとされた武士の生き方、つまり軍事優先の武断政治を否定した賢君として描かれています。
 保科は春海に対し、次のように語ります。

 「“武”は放っておけば幾らでも巨大になり得る化け物でな。“久を貴ばず”というのは、つまるところ、武は常に“久”となる機会を狙っておるということだ」
 「かの太閤豊臣秀吉も、それに呑まれて滅んだようなものであろう。明国との合戦のため、朝鮮へ規模甚大の兵を赴かせ、南京への天皇遷都を目論むなど……“武”という怪物に抗えなんだのがよう分かる。おそらく太閤自身、合戦を終わらせたくとも終わらせられなんだのだ」
 「武は、のさばらせれば国を食う。食わせるものがなくなったとき、太閤は滅んだ。武断の世が滅ぼしたのだ…」

 ここに、賢君と言われた保科正之の思想が見えるのです。確かに騒乱の世には“武”は必要だったでしょう。しかし、世が治まり始めたならば、それまで“武”によって虐げられてきた民のために何が必要かに、政治はシフトしていかなければならない。そういうことでしょう。

 沖縄をどう見るか。いまだに“騒乱の世”にあるとみなすのか、それとも、戦後65年を経て、虐げられてきた民への新たなシフト・チェンジの時期にようやく到達したとみなすのか。
 保科の考え方を敷衍していけば、そのふたつの流れが見えてくるように思われるのです。
 アメリカとそれに追随する日本国内の人々にとっては、沖縄周辺は、いまだに“騒乱の世”に近い状況にあると見えているのでしょう。だから、自分たちは日本本土という安住の地にあって、“国益のために”沖縄だけには、これからも基地被害を我慢してくれ、と言い続けることになるわけです。
 確かに東アジアに多少の騒乱の火種は残っているとしても、その火種を外交交渉で消すのが本来の政治のあり方ではないか、と考えるのが、もう一方の立場でしょう。私はむろん、後者の立場です。

 保科正之の思想は、この小説が描いたように、後に徳川300年の泰平をもたらしました。保科だけの成果だと言うつもりはありませんが、保科の行った政治がその基礎を築いたことだけは間違いないでしょう。少なくとも著者の冲方さんは、そう表現しています。
 むろん、ようやく成った徳川幕府に不満や反抗心を抱く武士たちが、まだまだ各地に跋扈していた時期です。しかし、世は否応なく騒乱から泰平へシフト・チェンジしていったのです。それが世の流れだったのです。
 沖縄とは状況が違う、と言われればその通りです。
 しかし、武断政治から民生安定の方向へ努力して行くことこそが政治だ、とは言えると思うのです。
 そうでなければ、おかしい。

 もうすぐ参院選投票日です。今回、私は、沖縄の問題を第一の選択基準にするつもりです。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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