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2010-06-16up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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米軍基地跡を散歩しましょう。
(その2、立川基地跡の巻)

 先日、我が家の近所の米軍基地跡(関東村)を散歩した話を書きました。よく考えたら、もう1ヵ所、わりと近いところに米軍基地跡があることを思い出しました。そう、「国営昭和記念公園」です。
 そんなわけで、電車に乗っていざお散歩へ。

 JR立川駅を降りて徒歩10分ほど。昭和記念公園の立川口です。まあなんと広い駐車場、そして入り口まで遠いこと。ここだけでも、この公園の広さ、つまり旧アメリカ軍立川基地の広さが実感できます。
 6月12日(土)、夏日でした。陽射しがかなりキツイ。それでも園内は、家族連れやカップルで大賑わい。
 私はもう何度もここへ来ていますが、そのたびに広さに感心します。このところ少々メタボ注意信号の私には、公園一周はとてもいい運動です。この広さ、ゆっくり歩いて1時間半ほどかかります。歩くと汗がジンワリと滲んできます。
 子どもたちはもう裸で、池の水遊びです。こどもの森のフワフワドームでは、ジャンプする子どもたちの歓声が響き渡っています。

 ここが、かつての軍事基地だったなんて、まったく変われば変わるものです。
 でも、基地の痕跡は、いまでもかすかに残っています。
 基地跡は、まだ全部を整備し終えたわけではありません。公園の西側、地図上では昭島市築地町、福島町と表示されている区域(残堀川の西側)は、今は鬱蒼とした原生林の様相です。しかもここが相当に広い。
 地図で確認してみると、東西約500メートル、南北約1100メートルの広さの土地が、ほとんど放置されたまま。今も、柵で仕切られ立ち入り禁止になっています。
 公園側から見てみると、ほんとうに原生林のジャングルです。その中に、にょっきりと「お化け煙突」が3本並んでそびえています。少しはなれた場所に、もう1本。高さは50メートルほどでしょうか。よく見ると、蔦が絡みつき、コンクリートが剥げ落ちていて、いかにも「お化け煙突」です。  多分、米軍の何らかの工場跡でしょう。兵器修理工場でもあったのでしょうか。かすかに戦争の臭いがします。

 公園東側には、陸上自衛隊立川駐屯地、海上保安試験研究センター、立川広域防災基地、警視庁第4機動隊などの施設があります。これらを併せると、この旧立川飛行場(最初は日本陸軍が使用し、敗戦後連合軍が占領、米軍立川基地となった)は、その面積が約470ヘクタール。すなわち、現在、問題の焦点となっている沖縄の普天間飛行場とほぼ同じ面積であることが分かります。
 この「お散歩日記」の第1回に書いたことと同じですが、米軍基地跡の利用法のひとつとして、大いに参考になると思うのです。

 休日にもかかわらず、かなりの騒音がします。ヘリコプターの爆音です。公園は広大で、音を遮るような建物はまったくありません。だから、轟音は容赦なく散歩する人たちの上に降り注ぎます。
 公園東側の防災基地のヘリと自衛隊のヘリでしょう。赤い機体で離着陸を繰り返しているのは、多分、防災ヘリ(緊急医療ヘリ?)の訓練なのでしょう。もちろん、人命救助に関わる仕事ですから訓練は大事。それはしっかりとやってもらわなくてはなりません。けれど、かなりうるさいのは事実です。
 私が散歩した日は2機のヘリコプターが、入れ替わるように交互に離着陸を繰り返していました。それがそうとうな轟音なのです。

 やっぱり、普天間を思い起こさずにはいられませんでした。
 たった2機、それも民生用機の訓練とは分かっていても、そう感じるのです。これが軍用機で、しかも6機前後で同時に訓練飛行をされるとなれば、その爆音は凄まじい。なにしろ、私が見た普天間の軍用機の大きさは、この公園の上で見たヘリの優に4、5倍はあったのですから、その爆音も半端じゃありませんでした。
 昭和記念公園には小高い丘(こもれびの丘)もあります。その丘の裏側に行けば、ヘリの轟音はかなり聞こえなくなります。丘が音を遮蔽してくれるわけです。しかし、普天間飛行場の周辺には、小高い丘などありませんでした。
 基地南側に「嘉数高台公園」という普天間飛行場を見下ろせる小さな丘はあります。普天間基地視察に訪れる政治家たちが、必ず立ち寄る場所です。ここから基地を見下ろしながら、「うーん、これはほんとうに危険ですねえ。一刻も早く撤退してもらわなくては…」などと眉をしかめて見せるパフォーマンスをよく行う場所です。
 しかしここの眼下には、びっしりと民家や公共施設が建ち並んでいます。つまり、嘉数公園は音の遮蔽には役立っていないのです。
 昭和記念公園の周辺は公共施設が多く、少しはなれたところにマンションがあるくらいで、あまり近所に民家はありません。そこが、普天間と昭和記念公園との最大の違いです。普天間をなんとか昭和記念公園に近づけたい。歩きながら、そう思ったのです。

 公園の中を北へ歩きます。この公園にはたくさんの出入り口がありますが、いちばん北側にあるのが「砂川口」です。
 うーむ、ここが例の砂川か…。
 ある年代以上の人には、少し感慨を抱かせる地名でしょう。そうです、あの「砂川闘争」があった場所なのです。

 1957年、アメリカ軍立川基地を拡張するため、東京調達局というところが当時の東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市砂川町)に測量に入りました。これに反対する現地の農民や住民たちが、測量を阻止しようとして、警官隊と衝突。この時、デモ隊の一部が米軍基地の柵を壊し、基地内に進入したとして逮捕起訴されました。
 東京地方裁判所の伊達秋雄裁判長は、1959年3月30日、「日本政府が米軍の駐留を許容したのは、日本国憲法第9条2項前段で禁止されている戦力の保持に相当し、憲法違反である」として、起訴された被告全員に無罪の判決を言い渡しました。これが有名な「伊達判決」です。
 日本政府は大いに驚愕しましたが、アメリカ側も驚いて、「直ちに高裁をすっ飛ばして最高裁に飛躍上告するように」という露骨な圧力を日本政府に加えました。もちろん、日本政府はすぐにアメリカの意を汲んで、飛躍上告をしたのです。(なお、この経緯は、後に公開されたアメリカ側の機密文書で明らかになりました)。
 そしてその思惑どおり、最高裁大法廷(田中耕太郎裁判長)は、「憲法9条は日本が持つ固有の自衛権を否定してはおらず、9条が否定する戦力とは日本が指揮監督できる戦力のことであるから、外国軍はその戦力には当たらない。また、日米安保条約のような高度な政治性を持つ条約については、明白な憲法違反が認められない限り、その内容に法的判断を下すことはできない(統治行為論)」として、伊達判決を破棄、地裁に差し戻したのです。当然のように、差し戻し審では被告の有罪が言い渡され、伊達判決は幻と消えたのです。

 こういう歴史を背負った「砂川」ですが、いまは親子連れや若者仲間の出入りする平和な場所になっています。

 普天間飛行場は、5月16日、豪雨の中で1万7000人が手をつないだ「人間の鎖」で包囲されました。13キロにも及ぶ基地の外周が、人々の抗議の鎖で包囲されたのです。
 菅首相は、6月14、15日の国会の代表質問でも、「普天間基地移設は、日米合意の辺野古案を基本として、沖縄県民の負担軽減を追求していく」との答弁を繰り返しました。
 市民が闘った「砂川闘争」は、結局、米軍基地の拡張を阻止しました。その時、市民が掲げたのは「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」というものだったそうです。
 菅さんは、初の市民運動出身の総理大臣として期待も高いとのことですが、さて、それではこの普天間問題を、市民の側に立って、どのように処理しようとするのでしょうか。やっぱり、「辺野古の海に杭を打ち込む首相」になってしまうのでしょうか。
 そんなことはないですよね、菅さん。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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