戻る<<

バックナンバーへ

短期集中連載「沖縄」に訊く―米軍普天間基地問題をめぐって―【3】鈴木耕(編集者)

100428up

【第3回】

 基地問題の焦点のひとつ、辺野古を訪れた。「ヘリ基地反対協議会」が座り込みを続けている海辺のテント村。那覇から1時間半ほどをレンタカーで走る。海の堤防脇に観光バスが停まっていた。

 辺野古の海は本当に美しい。しかしその浜は、キャンプ・シュワブと鉄条網で仕切られ、一般人は海辺へ入れない。鉄条網に、基地反対を思い思いに書き記した短冊や布切れが、まるで七夕飾りのように結び付けられていた。

 テントの前には30人ほどの人。観光バスでやってきた人たちらしい。その人たちに向かって、恰幅のいい年配の男性が、パネルを手にして説明をしている。當山栄さんという69歳の男性。もう6年間も座り込みに参加しているという。私も人々の後ろで説明を聞く。

 普天間基地の辺野古代替案が出てきた経緯と、それへの抵抗。ジュゴンを守れという運動の高まり。環境調査と称する防衛省の海への杭打ちに対する反対運動、座り込み。説明は30分ほど続いた。

 座り込みに参加している女性に、少しだけ話を聞いた。

私もカヌーに乗って反対しました

関西地方からの移住者・Aさん

 私は沖縄が大好きで、関西から移住して来ました。まだ数年しか経っていない新米です。でも、本当にこの海が好きなんです。こんなきれいな海を埋め立てて新しい基地を造るなんて、どうしても許せないんです。私みたいに本土から移住してきて、この海を守りたいって思い、運動に加わる人は他にもいるんですよ。

 私はあまり泳ぎは得意じゃないですけど、防衛施設局の調査船がやってきたときには、カヌーに乗って抗議行動に加わりました。そんな経験は初めてだったのでとても怖かったけれど、阻止したいという気持ちのほうが強かったんです。それに、おじいやおばあが頑張っているのに、私たち若い者が黙っているわけにはいかないと思ったし。

 そのときは、本土からも参加してくれた人も多かったし、みんなの力のお陰で一応は阻止できました。もしどうしても辺野古に基地を造るということになれば、もっと多くの人たちが来てくれると思います。基地反対の市長さんも当選したし、大丈夫だとは思いますけど。

 ここには連日、多くの人が来てくれています。多い日には70人から100人ほどにもなることもあります。その人たちがここで見たり聞いたりしたことを本土の人たちへ伝えてくれれば嬉しいです。

 観光バスがまたやって来た。後で聞いてみると「平和ツアー」というような団体旅行だという。基地問題や平和に関心のある本土の人たちがツアーを組んで訪れる。Aさんの言うように、この人たちの口コミで辺野古の状況は本土へも広がりつつある。

 もし基地建設が強行されるような事態になれば、沖縄県民はもちろんだが、このような本土の人たちも大挙して支援に訪れるだろう。それは、辺野古に限らず、キャンプ・シュワブでも勝連沖でも同じことだ。日本政府はそのことに気づいているのだろうか。

 私は沖縄そばが大好きだ。毎日、昼飯は沖縄そばだった。同行のカメラマンに「よく飽きないですねえ」と感心されたほどだ。那覇でふらりと入った食堂のそばが絶品だった。

今が踏みとどまる境目さー

那覇で沖縄そば店を営むBさん(62歳)

 沖縄の人間は、すぐ変わる。ずっとそう言われてきたさー。でも、今回だけは変わらんと思う。もう変われんさ。ここまで来た、もう引き返せん。みんなそう思ってる。

 ここでまた新しい基地を認めてしまったら、「ほーら、沖縄の人間はやっぱりダメだ。また金に転んだ」と言われるさー。何度も何度もそういわれ続けてきたけど、ここで踏みとどまれんようなら、これから何を言ってももう本土の人間には信用されん。そのいちばんの境目が今さー。本土の悪口や愚痴ばっかり言ってても、もうどうしようもない。
 今だとおもうさ、僕は。

 ちょっとはにかむような口調でBさんはそう言った。多分、私のような本土の人間に胸の内を語ったのは初めてだったのだろう。照れくさそうだったが、意志が見えた。沖縄そばを食べながら、私は何度も頷いていた。

 本土から沖縄へ移住する人たちが、年々増えている。2005年の例で見れば、転入が26400人、転出が23500人、差し引き2900人の増加である。こんな県は他に見当たらない。

 この傾向は最近も続いているが、その中身はやや変化しているという。それまでは若年層の移住が多かったのだが、07年にいわゆる団塊の世代が定年を迎えたころから、定年後を沖縄でという中高年層の移住も目立ち始めた。

 沖縄の雇用状況は全国最低の水準だから、職を求めて県外へ出て行く若者は多いのだが、それを上回る転入者数なのだ。

沖縄のマグマは噴出寸前です

出版社勤務・桑高英彦さん

 僕は静岡出身ですが、沖縄へ来てもう30年以上になります。本土からの移住者としては早いほうでしょうね。ずっと宜野湾市の大謝名、普天間基地の南側に住んでいます。すごいですよ、騒音は。だけど、それが日常だから不感症になりますけどね。東京へ行ってホテルの静かな部屋なんかだと、なんかしっくり来なくて逆に寝付けなくなったりしますよ(苦笑)。

 飛行機の排気ガスの臭いっていうのもキツイです。風向きによってはすごいですから。つまり、それくらい基地と住宅地が密接しているということなんです。いくら爆音に慣れたとはいえ、耐えられないこともあります。ひどいときにはテレビ画面が波打つし、窓ガラスはビリビリ揺れる。パソコンがプツンと切れたという人もいるほどです。それくらいひどい。

 そういう状況の中で基地撤去の可能性が出てきたんです。もう抑えられないでしょう。沖縄の人たちのマグマは噴出寸前にまでせり上がって来ている。無視され続けた怒りは、何かの小さなきっかけで暴発します。それはもう、沖縄中の人たちが口には出さないけど感じていることですよ。何かあったら、もう黙っていないぞと。

 少女暴行事件が起きたとき、ある人が「同じことが他国で起きていたら、米兵や基地に向けて石が飛び車に火がつけられ、手がつけられなくなっていたに違いない。なのに、沖縄では抗議集会はあったけれど、石ひとつ飛ばなかった。それが不思議だ」と言っていました。そういう意味では沖縄の人って僕から見ていても温和しい。我慢に馴れてしまったとも言えるけど。

 今までは諦めが先にたっていた。言ったってどうせ届かない。でも、それが変わってきたんですよ。「言ったって無理」「言うだけ損」。それが政権交代で、「もしかしたら」になった。やがて「何とかなるかもしれない」「やれるはずだ」「やるべきだ」「我々がやる」と、意識が次第に変わってきた。

 今は「やれるはず」の段階まで来ているんじゃないかな。

 民主党政権が寝た子を起こしたんです。これまでだったら、いっぺん起きても辺りを見回して、都合が悪ければまた寝込んでしまっていた。でも、今度ばかりはもう眠らないでしょう。

 沖縄と本土を行き来しながら、沖縄人の長所も欠点も見て暮らしてきた人特有の感覚だろう。

 起きた子は、もう眠らない…。

 そのことに、もし政府が気づいていないとすれば、小さなことがきっかけで惨事が起こる可能性も否定できない。1970年に起きた「コザ騒動」を思い起こせば、これが杞憂でないことが分かるはずだ。

コザ騒動
1970年12月20日未明、コザ市(現・沖縄市)で米兵の交通事故をきっかけに騒乱が発生。米兵の車のみ70台以上が燃やされ米軍基地にまで群衆が侵入した。なお、米兵以外の車には手がつけられなかったし、店舗への略奪行為もなかったとされる。

 ニューカマーと呼ばれる新しい移住者も多い。東京から移り住み、おしゃれな居酒屋を始めたCさんもそのひとりだ。

基地の跡地利用をもっと考えるべきです

居酒屋店主・Cさん

 僕みたいな新参者が言うのはおこがましいけど、どうも沖縄の人たちは商売がうまくない。もう少し考えてやればいいのに、と思うこともけっこうありますよ。

 もちろん基地の返還はいいことだけど、その跡地をどう利用していくかが問題なんですよ。見ていると、こっちの人はそこがうまくない。例えば、基地の跡地をそこの町だけで開発しようとする。全県的な視野っていうのか、全体を見渡して、それぞれの町に似合った開発計画を立てようという考えがあまり感じられないんです。だから、返還された基地跡にはみんな同じような街ができてしまう。それじゃ飽きられますよ。

 ここは商店街、ここは住宅地、官庁街やアミューズメントタウン、そういうふうに、島全体を視野に入れた街造りをすれば、もっと全体的に発展すると思うんだけど。

 北谷町のハンビー飛行場跡地に、ハンビータウンという若者向けの街が造られたんです。最初はずいぶん賑わって、若者たちがいっぱい集まったそうですが、今はかなりヤバイ状態です。同じような街が他にもできたので、みんな新しいほうへ行っちゃうわけですから。

 僕も店を出すときにハンビータウンも考えたんですが、知り合いに「あそこはもう期待できない。これからハンビーに店を出すのはリスクが高すぎるよ」とアドバイスされたほどです。

 同じような街を造るからそういうことになる。もっと全県的な協力の下で開発を進めなければ、せっかくの基地跡地利用が失敗しちゃうんじゃないかと思うんですよ。

 まあ、オレみたいな若造が言うのは生意気ですけどね。

 この意見はかなり正鵠を得ていると思う。そういえば、私たちが回った再開発地域の多くが極めて似た印象だったのは、そういう事情があったからなのかもしれない。

 インタビューの中での大田元知事の言葉を思い出した。

 「沖縄人は本当に商売が下手だからねえ。本土の企業ややり手の人が入ってくると、そっくり持っていかれてしまうんですよ。そこをどうにかしないと、せっかくの基地返還後のシナリオが、みんな本土に食い荒らされてしまいかねない。そこが心配なんだよ、僕は」

 沖縄と本土が協同して、基地返還後の再利用プロジェクトを作ることが急務ではないか。そうでなければ、基地跡の開発が結局、本土資本の食い物にされてしまう恐れもなしとしない。

 取材最終日、私たちは本当最北端の辺戸岬を目指した。ある碑を見たかったからだ。

 高速道を飛ばす。途中、金武町伊芸区を通りかかる。高速道のガードレールに書かれた大きな文字に、一瞬ぎょっとする。

〈流弾に注意 米軍実弾射撃訓練中〉

 キャンプ・ハンセンの演習場から射撃訓練の実弾が、住宅地まで飛び込んでくるのだ。過去には人的被害まで出ている。実弾に晒されている日常、それは私たちの想像外の生活である。

 那覇からほぼ100キロ、辺戸岬。ここに「祖国復帰闘争碑」という記念碑がある。取材の最後に、どうしてもそれを確認しておきたかった。

 碑には、こうある。

全国のそして世界の友人に贈る

吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の叫びだ
鉄の暴風やみ 平和のおとずれを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日
サンフランシスコ「平和」条約第三条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた
われわれの闘いは 蟷螂(とうろう)の斧に擬せられた
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ
全国民に呼びかけて 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
二十七度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まれている 土こそ
辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ
一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した
しかし県民の平和の願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された 
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのではなく
まして勝利を記念するためにあるのでもない
闘いを振り返り 大衆を信じ合い
自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり
人類が永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理のもとに
生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある 

 気恥ずかしくなるほどの気負った文章だけれど、今、沖縄には、この文章の熱気が甦りつつあるのではないか。

 なお、この『祖国復帰闘争碑』については、JCJ(日本ジャーナリスト会議)出版部会HP「出版ろばの耳」の中の私のコラム『活字の海を漂って 第32回』でも詳しく触れている。もし時間がありましたら、ぜひ読んでみてください。

大田元知事の怒り

 そして4月23日、私は再び那覇に入った。当日の午後4時ごろ、お会いする約束をしていたので、大田昌秀元沖縄県知事の事務所(大田平和総合研究所)にお邪魔した。

 大田さんはとてもお元気で「ああ、また来てくれたの。嬉しいねえ。県民大会、成功させようね」と、喜んでくださった。大田さんはこの日、6時半からシンポジウムに出席するという。私も会場へお邪魔した。那覇のパシフィックホテル沖縄。沖縄青年会議所主催の「普天間基地固定化の危機~沖縄の未来は沖縄県民が考える~」というシンポジウムだ。300名ほどの聴衆で熱っぽい。

 野中広務元官房長官の基調講演の後、大田元知事、稲嶺恵一前沖縄県知事が加わってのパネルディスカッション。

 野中さんは「普天間基地の辺野古移設は日本政府と米政府の合意、国家と国家の約束は重いものだ。環境や住民への配慮を充分に尽くした上で、現行案(辺野古への新基地建設案)を速やかに遂行すべき」と述べた。

 これに対し、大田さんは「国家があって国民があるのではない。国民があってこその国家ではないか。国民に犠牲を強いるような国家であってはならない」と猛反論。あの温厚な大田さんが、机を叩かんばかりの勢いで訴えた。今回の県民大会が「基地なき沖縄を展望する最後の機会」と見定めているという大田さんの気持ちが強く伝わってきた。

 こんな状況も含めて、沖縄は次第に盛り上がりを見せ始めた。

 同じ日には、県民大会のシンボルカラーである黄色のリボンを街頭で配る若者たちも見かけたし、相変わらず観光客で溢れている国際通りでは、県民大会の趣旨に賛成する商店主たちが、黄色のTシャツや黄色のリボン、スカーフなどを店頭に並べ始めていた。

 現地の新聞「琉球新報」「沖縄タイムス」、それに琉球朝日放送、沖縄テレビ、琉球放送、NHKのテレビ各局もニュースなどで大きく取り上げ、県内各自治体は臨時バスの運行も予定。県民大会へ向けての布石は着々と打たれているように見えた。

いざ、県民大会へ

 私事で恐縮だが、私には大きな自慢がある。実は私、完全無欠の晴れ男なのですよ。私が参加した重要なイベントや行事で、雨に降られたことはほとんど記憶にない。

 那覇に到着した23日は沖縄には珍しい冷たい雨が降っていた。翌24日、私はレンタカーで辺野古と移転案が急浮上した勝連半島から平安座島(へんざじま)、宮城島、浜比嘉島を巡ったのだが、この日もスッキリしない天候で、曇ったりポツリときたりの危うい天気だった。

 しかし、25日に関しては、私はまったく心配していなかった。なにしろ絶対の晴れ男。そしてその思いどおり、25日は朝から快晴。絶好の大会日和となったのだ。

 私と「マガジン9条」のスタッフHくんは、ある取材チームのご好意に甘えてロケバスに同乗させていただき、午前9時半に那覇を出発。10時半には会場の読谷村(よみたんそん)運動広場に着いた。午後3時スタートの県民大会だが、私たちは、会場の設営準備から周辺取材、そして開会から閉会まで、すべての経過を見ることができた。幸運だった。

 読谷村は不思議なところだ。なにしろ、米軍基地を返還させてその跡地に村役場を作ったという経緯がある。その事情は役場前の碑に詳しく刻まれているし、さらに感動するのは、「日本国憲法第9条」を刻み込んだ石碑が、役場玄関先に建てられていることだ。

 憲法9条を行政の拠り所にしている。憲法を大事にする。よく考えればそれは当然のことなのだが、いまや「憲法を守れ」といっただけで「政治的に偏向している」などと非難されるような風潮さえある。そんな中で、玄関先に憲法9条の碑を掲げる。その心意気や良し。

 この地で「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外移設を求める県民大会」が開かれるということは、まことに理にかなったことなのかもしれない。

県民大会を国民大会へ!

 午後1時から、ステージではプレイベントが始まった。ラップ、フォーク調、テノール歌手の独唱、沖縄民謡、中高生たちによる組踊り…。多彩な音楽が青空に響き渡る。まだ会場には空きが目立つ。

 2時ごろから、本格的に参加者たちが集まり始めた。最初はかなり年配の方たちが多い。私とHくんは、「うーん、若い人はあまり関心ないのかなあ」と、首を傾げる。しかし、それは杞憂だった。2時半が過ぎたころから、特に若い人たちが目立ち始めた。どこかで仲間同士で待ち合わせてから会場入りしてくるのらしい。

 周辺道路は、すでに大渋滞しているとの情報が入る。読谷村から10キロほど離れた北谷町(ちゃたんちょう)あたりから、車はほとんど動かなくなっているという。嘉手納ロータリーでは40分にわたってまるで駐車したままの状態が続いたともいう。

 沖縄には鉄道がなく、公共交通はモノレールとバスのみ。モノレールは空港と首里城を結ぶだけ。だから、この読谷村へはバスか自家用車で来るしか方法はない。

 凄まじい渋滞で開会に間に合わなくなって、バスから降りて徒歩で会場へ向かっている人も多く、数キロにわたって人波が続いているという。それほど、この県民大会に希望を託す人たちが多かったのだ。

 これまで、反基地を訴える集会や大会は数多く行われてきた。しかし、いままでと違って今回の大会が画期的なのは、沖縄の全41市町村の首長すべてが参加したこと。つまり、完全な全島&全党派一致の大会になったことである。直前まで参加するかどうか明確にしていなかった仲井真弘多沖縄県知事も、前々日についに参加を表明した。県民の熱気に抗し切れなかったのである。これで全島一致、いわゆる「島ぐるみ闘争」の連帯ができあがったのだ。熱気に拍車がかかる。

 しかし一方、不愉快な情報もある。直前まで、平野官房長官が仲井真知事に対して「大会に参加しないように」と圧力をかけていたというのだ。これが事実とすれば、本当に許しがたい。地方自治の原則を踏みにじる行為といわざるを得ない。まさに更迭に価する。

 午後3時、大会開催が宣言された。会場は古い表現だが、ほとんど立錐の余地もない。入りきれない人たちが、隣接の野球場にも集まりだしている。会場へ押し寄せる人波は、開会しても途切れない。陽は高く、ジリジリと熱い。

 読谷高校の河口明里さんの司会で大会は始まった。高校生代表の挨拶に立ったのは普天間高校3年の岡本かなさんと志喜屋成海さん。若い声が響く。明確な決意の言葉だ。

 「私たち一人ひとりが考えれば何かが変わる。そう信じていま、私はここに立っています」

 それに比較して、仲井真知事はかなりテンションの高い挨拶。

 「この沖縄から戦争の傷跡はほぼなくなったが、米軍基地は変わることなく居座っている。明らかに不公平であり、差別に近い印象をもたざるを得ない」と、声を張り上げた。しかし、ついにその口から辺野古を含む県内移設拒否の言葉は聞かれなかった。仲井真知事の心中には、いまだに「現行案容認」が燻っているらしい。

 しかし、何はともあれ全島民がひとつになっての「最低でも県外へ」という意志表示を、知事も承認せざるを得なかったという事実は重い。これで、政府は完全に手足を縛られた。もはや、沖縄県内に米軍新基地を建設することは不可能だ。もしそれを強行するならば、この日の県民の圧倒的な意志表示を根底から踏みにじることになる。それは民主党政権の崩壊というだけではなく、民主主義も政党政治もすべてが崩れるということにつながるのだ。

 次々と決意表明が続く。伊波洋一宜野湾市長は歯切れよく海兵隊のグアム移転の根拠を示して代替基地など不要だと説き、稲嶺進名護市長は市民の意志を代弁して、辺野古案とキャンプシュワブ陸上案の絶対拒否をはっきりと訴えた。

 その度ごとに、賛同のどよめきや拍手と共に黄色いリボンやスカーフが揺れる。むろん、労組や政党の旗の下に動員された人たちが目立つけれど、圧倒的に多いのは、個人参加の人たちだ。

 白い杖を振る盲目の人、車椅子の手すりを叩いて賛意を表す人、涙をこぼしながらしきりに頷くオジイやオバア、子どもを肩車して見守る父親、8人で参加したという沖縄北部・東村の家族もいた。それは確かに、県民各層の画期的な結集であった。普通ならば建設利権で県内移設に賛成すると思われていた沖縄県建設業協会も組織参加したほどだったのだから。

 仕事で大会参加できなかった人たちも、黄色のリボンやスカーフを身に着けることで意志表示した。老人施設でも、黄色のタオルを手にしてテレビを食い入るように見つめる人たちが多かったと、翌朝の新聞は伝えていた。

 大会決議とスローガンを採択し、ガンバローを三唱して、4時半に閉会した。しかし、その時間でもまだ会場へ向かう車の列で、国道58号線は大渋滞が続いていたのだ。大会事務局から「参加人数は約9万人」と発表されたが、時間までに会場に到着できなかった人数はどのように推定したのだろうか。途中で引き返さざるを得なかったバスもあったと、新聞は伝えていた。

 こうして、県民大会は幕を閉じた。

 照りつける沖縄の太陽以上の熱気が、退場していく人たちから発散されていた。

 この県民大会について、地元のあるジャーナリストは次のように語ってくれた。

 「県民大会の成功に酔って、それで終わりにしてはいけないのです。沖縄県民は、確かにもう米軍基地を受け入れないという意志表示をしました。それを、沖縄県民だけではなく全日本国民の意志表示にするべきだと思うのです。日本国民がこぞって、もう日本にこれ以上の基地は要らないと、国民大会で意志表示すること。そうなって初めて、沖縄の米軍基地問題は解決に向かうはずです。いつまでも、個別沖縄の問題に押し込められている限り、それは一地方の問題として放置されてしまうでしょう。他人の痛みを自分でも感じられる想像力。それなくして沖縄の米軍基地問題の本当の解決は来ないと思います」

 私は深く頷く。

 県民大会を国民大会に。

 それこそが、これからのスローガンである。

 翌26日朝、私たちは那覇空港にいた。ロビーに時ならぬガンバローのシュプレヒコールが響いた。何事かと近づいてみると、政府に県民大会の決議を届け普天間飛行場の即時撤廃を要請する100人規模の代表団の結成式だった。昨日見かけた伊波宜野湾市長や稲嶺名護市長、翁長那覇市長らの顔も見えた。私たちと同じ飛行機に乗るらしい。

 がんばれよ。私は小さくエールを送った。

←前へ

ご意見フォームへ

ご意見募集

マガジン9条