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おかどめ やすのり 1972年法政大学卒業後、『マスコミ評論』を創刊し編集長となる。1979年3月、月刊誌『噂の真相』を編集発行人として立ち上げて、スキャンダリズム雑誌として独自の地平を切り開いてメディア界で話題を呼ぶ。数々のスクープを世に問うが、2004年3月の25周年記念を機会に黒字のままに異例の休刊。その後、沖縄に居を移しフリーとなる。主な著書に『「噂の真相」25年戦記』(集英社新書)、『武器としてのスキャンダル』(ちくま文庫)ほか多数。HP「ポスト・噂の真相」
オカドメノート No.033
先日の那覇市長選で自民・公明推薦の翁長雄志市長が3選を果たしたことは前回書いた。麻生政権の呆れるまでの末期症状ぶりを見ていれば、風は明らかに野党統一候補・平良長政側に有利なはずだったが、それを生かしきれなかった選挙対策本部の戦略・戦術ミスがあったのではないか。翁長氏が勝ったことで自公陣営は息を吹き返したのだから、平良氏の選対本部は徹底した総括が必要だろう。そうでないと、次の県知事選も含めて自公ファシズム体制が確実に続くことになるからだ。
この選挙結果にガッカリしていたら、泡瀬干潟に関するうれしい判決が那覇地裁で下された。泡瀬干潟埋め立て事業にこれ以上の県と沖縄市の公費投入を認めないという画期的なものだ。泡瀬干潟に関しては、この埋め立て事業によって広大な藻場が失われ、貴重な生植物などが絶滅する可能性が高く、環境破壊をやめて自然を保護すべきだという反対運動が続いてきた。むろん、環境保護よりも沖縄中部の経済発展を優先すべきという埋め立て事業推進派も存在してきた。「環境か、経済か」という沖縄の公共事業に見られる典型的な二項対立の構図である。
この事業が最初に構想されたバブル時代からみれば、さまざまな経済事情,環境アセスの変化もある。埋め立てた後の土地利用計画も企業誘致作戦も頓挫したままで現在も先行きは不透明だ。それでも、誰も工事進行にストップがかけられないというのが泡瀬干潟の現状だった。何よりも事態を複雑にしたのは、泡瀬干潟計画見直しを掲げて沖縄市長選に当選した東門美津子氏(元社民党議員)が、当選後に既に進行していた第一区域の工事進行を正式に認めたことだった。国、県、少数与党である沖縄市議会という包囲網の中で、東門市長も苦渋の選択を強いられたのだろうが、これがこの計画の行き当たりばったり、迷走ぶりをより一層印象づけることになった。
さらに、米軍との共有海域を埋め立てることで米軍基地地拡大にもつながる第二区域工事に関しても、東門市長の発言からは何がなんでも絶対反対との決意が感じられなかった。おそらく、国や県に押し切られて最終的に容認するつもりではないかという疑念も生んだ。東門氏を支持した反対派は怒り、反東門・推進派は喜んだ。東門市長の当初の思いからいえば紛れもなく変節ということになる。筆者は長野県知事だった田中康夫前知事のように、「脱ダム宣言」のような大英断を東門市長は下すべきだというのが当時からの主張である。
干潟を埋め立てて、大型ホテルやマリーナ施設、住宅、業務・研究施設を誘致しようというのが、当初の計画だった。しかしその計画は見通しが甘いことが次第に判明する。それでも巨額の資金を投入して、工事にGO!のサインを出して地元にハッパをかけたのは元財務大臣のOだった。沖縄の大学院大学構想を進めたのもこのOである。Oには、大学教授である娘が参議院比例から出馬するために、沖縄の建設業者からの票が欲しかったためだという見方もある。
そんな人物のツルの一声でスタートした工事だが、いったん動き始めると途中でストップがきかないのが日本の行政の最大の欠陥である。ダム、河口堰、道路、港湾、空港なんでもしかりである。埋め立てを担当する国、造成された土地を管理する県、実際の運営をはかる沖縄市というそれぞれの行政の役割分担はあるにせよ、最終的には沖縄市が巨額の負債を背負うリスクの高いプロジェクトであることに変わりはない。まして、米国発の世界恐慌で、日本の経済も財政もガタガタになっている現状を考慮すれば、沖縄市にとっては百害あって一利なし、のプロジェクトというべきではないのか。
今回の那覇地裁の判決で、敗訴した形になった県と沖縄市が控訴するかどうかが注目されている。東門市長の出身母体である社民党、地域政党・社会大衆党は県議会で控訴断念を決議している。民主党、共産党も当然控訴反対だろう。東門市長はまさに四面楚歌状態である。後は沖縄市議会、沖縄県議会で、どういう決議が出されるか、である。裁判所の判決に法的拘束力があるわけではないが、ここは控訴を断念して直ちに工事を中止したほうがマシではないのか。傷は浅いうちに治したほうが賢明である。
東門市長よ、今こそ大英断すべきではないか。沖縄市の財政を破綻させないためにも、貴重な泡瀬干潟という自然を守るためにも、である。それが、沖縄の将来のためであることは自明ではないか。保守的な裁判所ですら「経済的合理性が認められない」と裁定したのだから、過ちを認めるにはいいきっかけと大義名分ができたのではないか。
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