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癒しの島・沖縄の深層

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おかどめ やすのり 72年法政大学卒業後、『マスコミ評論』を創刊し編集長となる。1979年3月、月刊誌『噂の真相』を編集発行人として立ち上げて、スキャンダリズム雑誌として独自の地平を切り開いてメディア界で話題を呼ぶ。数々のスクープを世に問うが、2004年3月の25周年記念を機会に黒字のままに異例の休刊。その後、沖縄に居を移しフリーとなる。主な著書に『「噂の真相」25年戦記』(集英社新書)、『武器としてのスキャンダル』(ちくま文庫)ほか多数。HP「ポスト・噂の真相」

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オカドメノート No.013

「慰霊の日に」再びこみあげる怒り

 沖縄における実質的な敗戦の日は、6月23日である。日本軍の沖縄防衛第32軍司令官牛島満中将が本島南部の糸満・摩文仁の丘の中腹につくられた司令部壕で自決したことで、これをもって日本軍の組織的戦闘が終了した日とされている。この日を沖縄では「慰霊の日」に制定し、沖縄県内各地で戦死者を悼む催しがさまざまな形で行われた。全国的に知られているのは、沖縄県が主催する糸満市の平和記念公園の戦没者の氏名が刻まれた平和の礎(いしじ)において戦死者の霊を追悼し恒久平和を願う式典だろう。過去には天皇も列席し、小泉純一郎、安倍晋三といったタカ派総理も参加しているが、今回は福田康夫総理も参加した。福田総理は後期高齢者医療制度の是非を問う意味もあった沖縄県会議員選挙の応援にも来なかったし、基地問題や日米地位協定の改定に対してもまともなコメントすら出していない。形だけのパフォマンス参加もいいが、トンボ帰りではなく二、三日滞在して戦争の悲惨さを残す沖縄の戦跡めぐりや普天間基地や辺野古基地建設予定地の視察でもやってみたらどうなのかという思いをいだく。対米追従の一国のリーダーにとって、沖縄をキチンと理解しておくことは政治指導者として当然の心構えではないか。

 あらためていうまでもないことだが、日本全土においては1945年8月15日における天皇の玉音放送がなされたことをもって終戦ということになっているが、沖縄は本土よりも一足早く軍民あわせて20万人以上の犠牲者を出すという「鉄の暴風」と呼ばれた激しい地上戦が展開されている。それ以前にも日本軍が占領していたサイパンや硫黄島でも玉砕戦は行われているが、日本国内における地上戦は沖縄だけである。米軍の日本本土への上陸・侵攻を阻止するために、沖縄は時間稼ぎの楯とされて、玉砕的な総力戦を強いられたのである。そこから、軍の関与による座間味島における集団自決の悲劇が起こるべくして起こったのだ。

 米軍が沖縄で最初に上陸したのは、座間味島のある慶良間諸島だったため、当時の徹底した皇民化教育による洗脳や上陸してくる米軍に対する恐怖心もあって生きて捕虜になる辱めを受けるよりも手りゅう弾による自決の途を選ばざるをえなかったという背景もあった。その犠牲者は慶良間諸島だけで700人余といわれている。女子高生を学徒動員の形で編成した「ひめゆり」「白梅」部隊など、沖縄戦における悲劇はいくら語っても語りつくせないくらいだ。

 日本の敗戦後も米軍は占領した沖縄に広大な軍事基地を構え、51年のサンフランシスコ講和条約によって、日本の独立と引き換えに米軍に沖縄の基地の自由使用の権限を与えた上で、沖縄は米軍の施政権の下に置かれた。72年の本土復帰が実現するまで、沖縄は本土への渡航もビザが必要であり、車は右側通行、通貨は米ドルという植民地体制に置かれたのである。そして、復帰した今でも、在日米軍基地関連施設の75パーセントが沖縄に集中している。米軍基地があることで、事件やトラブルは絶えない。にもかかわらず、日本の警察も手を出せない治外法権的な不平等の関係性を是正するという日米地位協定改定の外交交渉も日本政府は「運用で十分」として完全放棄したままである。福田総理の耳ざわりのいい言葉とは裏腹の日本政府、特に外務省や防衛省のヤリクチを見ていると、戦時下の旧日本軍と同じ体質ではないかと思いたくなる。

 鉄の暴風と呼ばれる凄まじい破壊力を持つ艦砲射撃によって焦土と化す悲惨な戦争を体験した沖縄人にとって、平和志向が一段と強いのは当然のことである。にもかかわらず、昨年は高校の歴史教科書から集団自決において軍の関与があったとの記述を削除するという文科省の動きもあった。米国とともに戦争が出来る軍事同盟体制をつくるために憲法改正が目論まれ、国民投票法や国民保護法という法律までつくりあげられた。沖縄の基地撤去、縮小、平和な島という願いに相反する形で名護市の辺野古に近代装備をほどこした新基地をつくる計画も進行している。負担軽減ではなく強化である。それも、米軍再編交付金や補助金というアメをバラマキながら、国策という強権的なムチを振るうヤリクチだ。湿気の多い梅雨の暑さの中で、壕から壕へ逃げ惑った当時の状況を想起すれば、沖縄県民は気の毒すぎる。たまたま慰霊の日だったということもあるが、戦後63年目、本土復帰から36年経つ沖縄の置かれている現実が基本的に変わらないことに対しては、移住者の身ながら実に腹立たしい限りである。日本政府は、沖縄を一体なんだと思っているのか、ホンネとやらをぜひ聞いてみたいものだ。

「本土」では、それほど大きく取り上げられないことも多い「慰霊の日」。
沖縄だけではなく全国で、過去の戦争について、そして沖縄の現在について、
改めて考えてみる機会にすべきなのではないでしょうか。
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