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やまねこムラだよりー岩手の五反百姓からー

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つじむら・ひろお 1948年生まれ。2004年岩手へIターンして、就農。小さな田んぼと畑をあわせて50アールほど耕している五反百姓です。コメ、野菜(50種ぐらい)、雑穀(ソバ、ダイズ、アズキ)、果樹(梅、桜桃、ブルーベリ)、原木シイタケなどを、できる限り無農薬有機肥料栽培で育てています。

第二十六回

「六ヶ所村ラプソディー」上映会

 先日まで、野山一面の雪景色だったのに、雪がどんどんとけていきます。
 雪がとけると、冬枯れのような景色が寒々しいのですが、よく見ると、その中からたくさんの植物たちの芽がでています。バッケ(ふきのとう)も、芽をだしました。さっそくテンプラにして、早春のほろ苦い味を楽しみました。

 植物ばかりではありません。畑を歩くと、モグラが作った新しい穴があちこちにあいてます。気の早い虫たちも、堆肥場を中心に、活動を始めています。堆肥場は発酵熱があるから、温かいのです。
 いつもなら北上川界隈にいる白鳥たちが、北へ帰る飛行訓練でしょうか、ここ数日、我が家の前の田んぼの上空を、編隊を組んで飛んだり、田んぼに降りてエサを探したりしてます。(写真)。やまねこムラでも、ようやく春の鼓動が始まったようです。

 ところで、前から見たいと思っていた記録映画「六ヶ所村ラプソディー」を、先日やっと見ることができました。
 昨年の9月でしたか、「マガジン9条」でこの映画を監督した鎌仲ひとみさんのインタビューがのりましたが、それ以来、この映画を是非見たい、と思っていたのです。

 ことしの春か夏にも、青森県の六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場の本格稼動がせまっているなかで、岩手県でも、この問題に対しての関心が少しずつ高まっています。そこで、県内各地で「六ヶ所村ラプソディ」の自主上映会が開かれているのです。
 上映会を主催するのは、各地の主婦だったり、若い会社員だったり、あるいは漁業関係者だったりのようです。わたしは日程の関係で、釜石までこの映画を見に行ったのですが、主催は宮古の主婦のグループでした。

 草の根運動的にこの映画の上映会が開かれるのは、県はちがっていても、万一事故があったら、岩手県もその影響はまぬがれない、という危機感があるからでしょう。青森県と隣接する久慈や二戸は、再処理工場から約70キロ。県都盛岡までは150キロ。わたしの住むやまねこムラまでは、ざっと200キロの距離です。
 1986年のチェルノブイリ原発事故が、数百キロどころか、1000キロ以上も離れたところまで放射能汚染を引き起こしたことを考えれば、「対岸の火事」ではない、と考えるのは、市民としては当然の反応だと思います。

 そして、映画をみて、「再処理工場問題は、対岸の火事ではない」と考えることすらが、「対岸の火事」感覚だったな、と反省しました。
 再処理工場問題は、「かれらの問題」ではなく、「わたし(たち)の問題」でした。
 憲法9条の問題と同じ。「かれら」ではなく、この「わたし」の問題だったのです。

 わたしも、電気をたくさん使っています。エアコンはないし扇風機もない、主暖房はマキストーブという省エネ生活をしているつもりですが、テレビや冷蔵庫がある、電灯も、電話もパソコンもある。コメの保冷庫や冷凍庫もある。「電気なしでは暮らせない」のは、都会のマンション暮らしの方とそう変わりはないのです。
 電気は東北電力から供給されています。東北電力は、青森県下北半島の東通原発2基と、宮城県女川原発3基を稼動させています。ほかにも、水力、風力、地熱、といろいろな発電をしているようですが、原発だって5基もある。わたしも、原発製の電気を何割か使っていることは間違いないことです。

 わたしの理解をまとめれば、以下のようになります。
 原発を使っている以上、「使用済み核燃料」(ゴミ)はどんどんたまる。それぞれの原発で、保管するのにも限度がある。全国では55基原発があるから、その原発のゴミの総量は大きい。どこかへ、もっていきたい。
 そこで、六ヶ所村の再処理工場に、全国の原発からでた「使用済み燃料」を集め、まとめて「再処理」してプルトニウムを作ることにした。
 では、なぜプルトニウムを作るのか?「もちろん、核兵器を作るため」ではない。
 当初は、高速増殖炉用だった。ところが、その受け皿だった「もんじゅ」が事故だらけでアブナクて使えない。(なにせプルトニウム1グラムで100万人を殺せるのだ。)そこで、通常の原子炉でプルトニウムを燃やす「プルサーマル」計画で使う、ということになった。だが、「プルサーマル」計画自体、メリットより危険や費用の点でデメリットの方が大きい、ということもわかってきた。
 だが、原発を促進してきた国家のメンツがある。巨大な機構になった日本原燃や電力会社の利権もある。「はい、やめました」というわけにはいかない。
 そこで、「再処理工場」という名前の「核廃棄物のゴミ捨て場」として、六ヶ所村を使うことにした。単なるゴミ捨て場に見えないように(最終処分場は他に作ると約束してあるから)、あえて必要のない「再処理」をして見せている・・というのがホンネのところではないでしょうか。

 おかげで、普通の原発から出る放射能の1年分が、再処理工場から1日で放出される。原発には放出される放射能量のシバリがあるが、再処理工場にはない。だから、どんどん放射能を、海に、空に捨てる。
 結果は、「海が薄めてくれるから、安全、と思いますよ。10年後、20年後のこと・・?そんな先のことは、よくはわからないなあ。その前に定年になるし・・。それより、おれの退職金の計算、してくれた?」というわけです。

 「六ヶ所村ラプソディー」で、わたしがいちばんグッときたシーンがあります。
 無農薬でおコメを育てている農家の女性が、放射能で汚染されるかもしれないというので、それまでおコメを買ってくれていた消費者から、今年からは買わない、という手紙を何通かもらいます。「がんばってね、元気で育ってね」と声をかけながら、田んぼを這うように雑草をとって育てた自慢のおコメです。
 その手塩にかけたおコメが「放射能に汚染されるかもしれない」という風評で、売れないのです。本人は、農民の誠意を精いっぱい見せて「こういう危険性が今年からあるかも知れない」と、正直に顧客に伝えたのです。その正直と誠意の結果が「あんたのおコメはアブナイから、買わない」という返事です。
 その悔しさが、同じ百姓のわたしには、よ~くわかりました。涙がでました。
 いちばん泣きたかったのは、ご本人でしょう。でも、彼女は静かに耐えて、悔しさをこらえていました。

 鼻毛を抜きながら、自分の退職金を計算しているような天下り役人は、この映画には出てきません。しかし、生活のために、再処理工場で働くしかない人たちとは別に、このテの人間が、巨大な機構の運営権をにぎっているのも事実だったと思うのです。
 かれらは安全な場所でぬくぬくとしている。見えない「かれら」の存在を、しっかり想像しながら、この映画を見たほうが良いかなと思いました。そうしないと、出てくる人みんながいい人ばかりで、責任者が見えてこない。
 責任者はいるはずです。そして、万一の時にはおまえに責任をはっきり取らせるぞ、という姿勢が私たちには大切かと思います。
 それは、9条についての動きにも、いえることだと思うのです。

(2008.3.13)

望遠写真でないので、わかりづらいと思いますが・・。
15羽ほどの白鳥の編隊が、我が家の前の田んぼの上を飛んで行きます。
北へ帰る、練習のようです。

映画『六ヶ所村ラプソディー』は、今も全国各地で上映が続いています。
未見の方は、この機会にぜひ。
「かれらの問題」ではなく「わたし」の問題−−その言葉の意味がわかります。
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