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つじむら・ひろお 1948年生まれ。2004年岩手へIターンして、就農。小さな田んぼと畑をあわせて50アールほど耕している五反百姓です。コメ、野菜(50種ぐらい)、雑穀(ソバ、ダイズ、アズキ)、果樹(梅、桜桃、ブルーベリ)、原木シイタケなどを、できる限り無農薬有機肥料栽培で育てています。
第二十四回
隣のオジイサンが、数え97歳(満95歳6ヶ月)で亡くなりました。準本家にあたるので、分家筋の我が家も夫婦二人が丸三日間、朝から晩まで、付き合いました。田舎のお葬式は、結婚式よりタイヘンなのです。
わたしは「本家」とは血のつながりはまったくないのですが、今住む家を譲ってもらったときから、「本家」に対する「分家」というスタンスも一緒に、譲られたようです。このへんの岩手の農村社会のニュアンスは、なかなか説明しづらいですね。
ある一族(クラン)があって、代々この土地に住んでいる。事情があって、ある分家がマチ場へ出てしまう。その空き家になった家に、よそから新規就農者(わたし)がやってきて、住み始めた。
その新住民を、まったくのヨソモノと考えるのか、「分家」の継承者と考えるのか、一族の人々は混乱したと思うのです。で、姓はちがっても「分家」の継承者と考えて扱ったほうが、クランとしてはいままでの安定感や人間関係を維持できる。じゃあ、同じクランとして扱おう、そのほうが楽だ、ということだったかと思います。
わたしのほうも「郷に入っては郷に従え」のつもりでしたから、異存はない。で、同じクランの準メンバーみたいなカオをして、いまではのほほん暮らし。でも、冠婚葬祭のときには、一族の分家として動員される、ということのようです。
農業をやってみたいけど、こういう人間関係がわずらわしい、というかたは、昔ながらの共同体が生きている農村へは、一度熟慮されたうえで、移住されたほうがいいかと思います。都会のマンション暮らしの価値観や生活のやり方が、そのまま農村で通用するわけではない、ということは後々のトラブルを避けるためにも、あらかじめ知っておいた方がよいでしょう。
自然いっぱいのところに住みたいということなら別荘地でもいいわけですし、人里はなれた山の中に家を建てるのもいい。あるいは、町に住みながら、車で20~30分の自分の農場へ通うのでもいい。いろいろな、やり方があるかと思います。
もちろん、どんなところにもなじめるという方は、どうぞ農村へいらっしゃい。わたしのような者でも、にわか一族として扱ってくれるくらいの、ふところの深さがムラにはあるのです。なじめば、居心地はすこぶる良いのです。
ところで、亡くなったオジイサンは、大正元年(1912年)生まれでした。
この年はどんな時代だったのかと、日本史年表を見ますと、この年の12月から翌年2月にかけて、各地で「憲政擁護運動」がはげしく展開されます。この結果、桂太郎内閣がわずか50日で倒れています。藩閥政治に対する民衆の反発が大きくなった時代のようでした。明治憲法下の時代でも「護憲派」がいて、時の内閣を倒す力があったのですね。美濃部達吉の「天皇機関論」なども発表されて、時代はややリベラルな雰囲気になりつつあったのかもしれません。
しかし、この年「米騒動」が起きていますし、前年には大逆事件の幸徳秋水たちが処刑されています。翌年東北地方は冷害で凶作だったとありますから、庶民には生きづらい時代だったのかもしれません。
オジイサンは、このような時代に生を受け、東北岩手の片隅で、無名のひとりの百姓として生き、暮らし、子どもや孫たちを育て、そして天寿をまっとうして死んだ、というわけです。「本人も、死んだかどうがわがらなかたじゃなかんべか」と、喪主の当主が言っていましたが、そのとおり、この世からあの世へと流れるように自然に逝った人生でした。
やまねこムラに住んでいますと、風景だけでなく、人の一生も生から死まで、鮮明に立ち上がってくるような印象があります。
おととし95歳で亡くなった大本家のオバアサンは、死ぬ1週間前まで畑仕事をしていましたし、先日まで元気にしていた老人が、ふいと、ひと休みするように、いなくなる。その印象が、とても、鮮明なのです。
少子高齢化の限界集落の現実といえばそのとおりなのでしょうが、人が生まれて、暮らして、死んでいく、というあたりまえのことが、ごく自然で身近なことのように見えてくるのです。こんな印象は、都会暮らしではなかったと思います。
おそらくムラの暮らしでは、「生が見える」ように「死も見える」のでしょう。
そういえば、養老孟司さんが最新の超高層マンションへ行ったとき、こう思ったそうですね。「この建物には、人は死ぬものだ、という発想、設計思想がない」。つまり、ドアやエレベーターが狭くて、カンオケが運べないようになっていたそうです。
人は、生まれて、成長して、暮らして、老いて、病気になって、死んでいく。このあたりまえのことが、都会ではいつの間にか、見えなくなっていたと思います。特に、「死」は巧妙に隠されてしまうから、実感がない。
だから、もっと働け、もっと儲けろ、もっと数字をあげろ、という視点しか見えてこない。死を意識することを、許さない。これは、巧妙でずるい都会のカラクリのような気がします。
時間がもったいないぞ、もっと稼げ、1日は24時間しかないぞ、8時間の時間給だけじゃ暮らせないぞ、前年比が下がっているぞ、もっと金儲けにはげめ、死んでもいいからもっと働け・・そうやって、人を追い詰めていく構造が、資本主義社会に限らず、いまの都会の労働環境にはある。
どうも、過酷な、特に若い世代には生きづらい時代になってしまったな、と思います。
東京だったら、銀座とか新宿とか渋谷とか六本木とか、人がたくさん集まるあたりに、死んだカラスでも吊るしておいたらどうでしょう。「死を忘れないため」です。死を忘れるから、逆に人は過労死させられるまで、働いてしまうのではないでしょうか。
「メメント・モリ」というラテン語があります。「死を想え」という意味だそうです。「人間、いつか死ぬものだ」、とハラをくくってしまうと、案外と生きやすくなるものです。
わたしの父親は、35年前に、60歳6ヶ月で死んでしまいました。(ちょうど、今回亡くなった隣のオジイサンと同じ学年でした)。そのオヤジの死んだ年齢に、わたしはあと1年なのです。
「まあ、オヤジが死んだ年まで生きられたら、まずよしとしよう」と思っています。もちろん、長生きはしたいのですが、人にはそれぞれ持って生まれた寿命があるし、その人にふさわしい死にどきがあると思うのです。寿命以上に無理無駄な延命はしてもしょうがない、と考えています。「夭せざるを以って寿と為す(若死でなければ寿命と思う)、でいい。どうせ、ひとはいつか死ぬもの」なのです。
たとえば、先日足を捻挫してしまったのですが「まあ、骨は折れていないようだから、医者に行ってもしょうがないや」と、気負いではなく思えました。それより医者にかかったと思ってその金で酒を買おう、と飲んでしまいました。
このように、気持ちのうえで前向きに「メメント・モリ」していますと、人生、必要以上に悩んでも仕方ない、と思えてきます。
イージス艦に当て逃げされたり、食い物に毒が入っていたり、爆弾が破裂したり、食べたいのに食べ物がなくて死ぬ「理不尽な死」はマッピラですが、しかし、人はいつか死ぬものです。人だけでなく、あらゆる生きものが、いつか死にます。
やまねこムラにいると、生きものの「生」だけでなく、生きものの「死」が鮮明に見えてきます。ネコもカラスもヘビもカエルもトンビもタヌキもウシもヒトも、みんな死んでいきます。いつか死ぬ存在だからこそ、その「生」がいとおしく思えます。自分の「生」も、ほかの生きものの「生」も、み~んないとおしい。
他者の「生」がいとおしくなれば、無駄にそのいのちを奪おう、とは決して思いません。「メメント・モリ」。これも、9条の精神のひとつのありかたではないでしょうか。
(2008.2.28)
盛岡城跡の脇に中津川が流れています。秋には鮭があがってくる清流です。
そこに、白鳥が泳いでいました。首が、やや灰色なのが、今年生まれた幼鳥です。
かれらは、3月なかばになると、北に帰っていきます。
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