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2010-03-16up

やまねこムラだより〜岩手の五反百姓から〜

第五十一回

東北関東大震災について

 3月11日の午後は、庭先でマキ作りをしていました。古い馬屋を解体した古材をもらったので、チェーンソーや丸ノコを使って作業をしておりました。建てられて百年以上たっている古い馬屋ですので、はりや柱などはかなり太いのです。はりなどは、曲がった木をそのまま使っています。チョウナ(手斧)で削ったあともあります。マキにするのはもったいないような古材なのですが、遠慮なく45センチほどの長さに切っていきます。

 そんなおり、いきなり小さな微振動がありました。あれ、とおもっているうちに、ぐわらりぐわらり、と地面が大きく揺れ始めました。少し離れて家をみますと、家全体が大きな波にのったように、ぐわらりぐわらりと、大きく揺れているのです。決して、ぐらぐら、ではありません。ぐわらりぐわらり、です。ゆっくりと、しかし大きく長く、揺れは続きました。2008年でしたか「宮城岩手内陸地震」のときと揺れ方がちがいます。あの時は、ゴーという音とともに、いきなり突き上げるような激しい揺れでしたが、わりとすぐにおさまった記憶があります。ところが今回は、いつまでたっても揺れがおさまらないのです。揺れは3分~4分ぐらいは続いたかとおもいます。

 これが私の体験した「東北関東大震災」の始まりでした。2011年3月11日、午後2時46分ごろです。揺れがおさまったころ、家の周りをみますと、古いガラス戸が倒れて割れています。積み上げてあったマキが崩れています。家の中では、皿やビンが棚から落ちて割れています。ロックしてあったはずのサッシが外れて窓が開いています。本棚やたんすが大きく動いて本が散乱しています。土蔵の壁がたたみ2~3枚ぐらいの大きさで崩れています。(写真)。しかし、私も家内も怪我はありませんでした。ありがたいことでした。飼っている6匹の猫が姿を見せないので、崩れたマキの下敷きになったのかと心配しましたが、暗くなってから戻ってきました。どこかで隠れていたのでしょう。猫は臆病な動物で、その後たびたび起こる余震でも、こわがってうろたえています。

 電気も電話も止まりました。ケータイを持たない私は、小さな携帯ラジオがあったのを思い出しました。去年の台風のとき、予備の電池を買ってあったのがさいわいしました。この小さなラジオが唯一の情報源となりました。霜を避けるために、寒い晩にハウスの中でローソクを焚くことがあります。ローソクの熱で、ハウスの中の作物を霜害から守るのです。このローソクがあったので、夜は臨時の明かりになりました。暖房はマキストーブ。この上なら煮炊きもできますし、マキストーブが照明にもなるのです。百姓をやっているおかげで、コメや味噌なら1年分あります。ハウスの中には、ホウレンソウやハクサイ、レタスを植えてありましたので、青物野菜もあります。昨年採れたタマネギやジャガイモもまだ保存してあるのです。飢える心配はありません。
 水は、井戸水をポンプでくみ上げていたのですが、停電でだめ。しかし、近所に昔の共同水場があって、いまも水がこんこんと湧いているのです。その水をもらえば、水にも不自由はありません。暮らしていくには、やまねこムラはじつに安心安全なところなのだ、とありがたくおもいました。

 いっぽう、夜になってから、沿岸部の惨状が刻々とラジオから流れてきます。ツナミです。岩手の三陸海岸はむかしから「ツナミの本場」なのです。どうやら、今回の地震は1000年に一度レベルの巨大地震だったことがわかってきました。マグニチュードは8.8(その後、9.0に変更)。三陸沖からはるか茨城県沖まで、500キロも太平洋プレートが跳ね上がったそうです。その巨大なエネルギーが巨大なツナミと化して、三陸沿岸だけでなく、宮城や福島の沿岸部を襲ったのです。電気が通じてから、はじめてテレビでそのツナミの映像をみましたが、ほんとうに恐ろしいものでした。まるで、映画を見るようでした。じつは、半月前にクリント・イーストウッドの「ヒア アフター」という映画をみたのですが、この映画の冒頭が、2003年のインドネシア・スマトラのツナミシーンから始まるのです。実際のツナミは、映画のツナミよりはるかに悲惨でむごいものでした。

 やまねこムラは、岩手県の北上山地の南西部にあたる山村なのですが、じつは海にもわりと近いのです。釜石や大船渡には直線で60キロぐらい、車で1時間半で行ける距離なのです。我が家の隣家の息子は、大船渡に働きに出ていました。そこへツナミ。三日間連絡がつかずに親や嫁さんが心配してたのですが、やっと昨日、避難場所へ居たところに連絡がついたそうです。怪我はしたそうですが、いのちは無事。でも、同じ場所で働いていた人が何人も流されてしまったそうです。やまねこムラに住んでいても、親戚や知人が沿岸部にいるという人もたくさんいます。私も、年に数回は沿岸部へ行きます。殻つきのホタテやアワビ、とれたてのサンマやサケなどが安く手に入るのです。そして、白砂青松の海の美しさ。高田松原のあの美しい海岸が、ツナミでなくなってしまったとは信じたくありません。悲しいことです。

 今回の巨大地震の影響は、ツナミの被害から原発の危険性へと、焦点が移っていく気配ですが、失われた数千(あるいは数万?)のいのちはもどってきません。生活の場を失った数十万の人は、それでもこれからの日々を生きていかなければなりません。
 都会でも、食料や水や燃料や日用品がなくてタイヘンだと聞いていますが、この国難をどうやって乗り越えていくか。政治の問題をこえて、日本人の底力を試される時代がはじまったなという気がしています。

(2011.3.15)

積んでいたマキと一緒に、土蔵の壁が崩れました。
修理しないと、全体が崩れてしまいます。

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やまねこムラからの無事の頼りに、まずはほっと一安心。
けれど、そのすぐそばには、命を、生活を奪われた数十万の人たちがいる。
ここから、ともに「生きていく」ために、
それぞれが、それぞれの場所で何をするのか。
それがこれから、問われていくのかもしれません。

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つじむら・ひろおさん
プロフィール

つじむら・ひろお1948年生まれ。2004年岩手へIターンして、就農。小さな田んぼと畑をあわせて50アールほど耕している五反百姓です。コメ、野菜(50種ぐらい)、雑穀(ソバ、ダイズ、アズキ)、果樹(梅、桜桃、ブルーベリ)、原木シイタケなどを、できる限り無農薬有機肥料栽培で育てています。

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