教育基本法を変えたら
・・・私はこう思う
06.11.28up
池田香代子さん(作家・翻訳家)
よほどの嘘がなければ戦争など起こせない(満州事変、トンキン湾事件、イラク戦争)。
よほどの嘘がなければ、変える必要のない法律を変えることなどできない。
教基法はアメリカの押しつけだという嘘、タウンミーティングのやらせ質問という嘘。
とくに後者は、権力がわたしたちの税金を使って、わたしたちにさして関心のない課題を関心があるごとくクローズアップし、しかも変えたいとのわたしたちの意思があるごとくに偽装した、ゆゆしき事件。
これは、ユダヤ人がすべての経済社会問題の元凶との唐突な主張を掲げて、あれよあれよという間にナチスが台頭したことを連想させる。
教育にはさまざまな問題があるが、教基法がその元凶ではない。藤原正彦は「いまの子どもは史上最低」と言い捨てた。教基法を変えたい政治家は、子どものモラルの低下を嘆いてみせる。
しかし、11月6日に東京新聞の加古陽治記者が書いたように、50年前に較べて少年犯罪発生率は5分の1以下。子どもたちには、いまの子どもたちの5倍も凶暴だったらしい人びとからモラルの低下を糾弾されるいわれはない。「子どもの規範意識低下」は、教基法がらみの嘘のなかでももっとも許せない大嘘だ。
カントは『永遠の平和のために』でこういう意味のことを言っている。
「モラルある政治家は、国にとってなにが最善かをモラルを踏まえて考える。モラルを説く政治家は、自分の政治のためにモラルを利用しようとする」
では、子どもを貶め、教基法を変えることを望む人びとの政治的思惑はどこにあるか。
やらせタウンミーティングが皮肉にも雄弁に先取りしているように、政治家や官僚が人びとの心のありように無制限に介入し、そんな政治家や官僚に従順な、彼らの思惑を自分の考えであるかのような「態度」をとれる人間をつくりたいのだ。
教育予算を、非エリートとされた者にはできるだけ使わず、限られたエリートにのみ集中したいのだ。
この2点が、今回の教基法政府案のねらいだ。
教育現場を評価でいまよりもさらにがんじがらめにしようというねらいも顕著だ。
上からの評価に汲々とすることがすでにいま、学校をどんなに息苦しい場所にしているかは、未履修・いじめ隠し・児童生徒の自殺、その10倍以上の教師の自殺・精神疾患といった深刻な事態に明らかだ。
国連は「子どもの権利条約」にしたがい、5年の間隔をおいて2度も、日本の子どもたちのストレスの重さを指摘し、改善を勧告している。
相次ぐ自殺や自殺予告は、この世界的に見ても異常なストレスがあるところに、昨今の教育現場の問題が最後のひと押しとなった現象ではないのか。
ことに自殺予告は、政治家や官僚にたいする子どもたちの批判ではないのか。
1960年の梅雨、国会周辺でひとりが殺された。
これまでも、子どもや教師たちはおびただしく命を落としてきたが、2006年の晩秋、それが加速している。
これらの死者の数に陶然としている政治家がいるのではないか。
衆議院第一議員会館と道を隔てて、厳重に警護された砦のなかに。
これらの死者にたいし、教育現場の問題をゆがんだかたちでなぜかいまクローズアップさせようとした向きの責任はないのか。
なぜなら、たとえば高校の未履修問題は、今年4月20日に毎日新聞ですでにくわしく報じられていたのだ。
過去の歴史を顧みるとき、当時の報道に勇気づけられることもあれば、暗澹とした思いに駆られることもある。
メディアのみなさん、歴史の検証に耐えうる報道を今してください。
わたしたち市民も、後世の人びとの勇気を後押しできるような行動をとります。
(2006年11月14日 於:衆議院議員会館 「教育基本法改定に反対する緊急アピールの会」での記者会見にて池田香代子氏より読み上げられました)
06.11.15up
上原公子さん(国立市長)
教育改革タウンミーティングの「やらせの質問」が、次々に明らかになっています。教育に問題ありと称している張本人が不正を働いて、何が教育改革かと、全く子ども達には聞かせられない情けない日本政府だと、怒りを通してため息ばかりです。
まず、教育すべきは政府、文科省自身でしょう。
しかし、こうまでして何が何でも「教育基本法」を改正したい安倍首相を中心とした改革派のもくろみは一体なんなのでしょうか。
改正案の前文に、「公共の精神を尊び」と言う一文が挿入されました。私は、最大の目的は、「公共」と言う名における「国家」に忠誠を誓う国民の教育にありと見ています。なぜなら、1946年「教育基本法」作成のための特別委員会に託された課題は、国家のために自己犠牲を求めた教育の転換をはかり、軍国主義や国家主義に利用されない教育の理念を明確にすることでした。つまり、「教育基本法」は、「公共」という「国家」に「個」の基本的人権が奪われることがあってはならないということが、民主主義の根幹をなすのだという強い意志として策定されたのです。これは、憲法第97条の「基本的人権は、永久に不可侵の権利である」とうたった憲法の原則を、「教育の力」で実現するものでもあったのです。
ところが、2003年6月に成立した「武力攻撃事態法」の議論の中で、政府は「高度の公共の福祉のためには、必要最小限の範囲内において基本的人権を制限することが許される」と見解を示しました。ここで言う政府の「高度の公共の福祉」とは、「戦争」です。
したがって、安倍首相が「教育基本法」改正をなにより優先課題であるとしたのは、「個」を尊び、「自由」を権利とする教育を、「公共」がコントロールする教育に変え、なんとしても戦争のできる国にしたいためとしか考えられません。
「公共の精神を尊び」を挿入することにより、教育が「国家」に奉仕する精神を植えつける最も重要な役割を果たすと言う、軍国主義を導いたかつての時代の教育が見え隠れする「教育基本法」の改正は断じて許されません。
「政府の行為によって再び、戦争の惨禍が起こることのないよう」、「教育基本法」改正を突破口にさせない!
06.11.08up
雨宮処凛さん(作家)
条件つきにしか生きることを許されない世の中で、
更に子供たちに「愛国」という条件まで押し付けることは、
彼ら、彼女らの「生きづらさ」を一層増すだけだろう。
毛利子来さん(小児科医)
小児科の町医者としての実体験として、70年代ごろまではお母さんたちが、自分たちのやり方で、いきいきと自由な子育てを楽しんでいたように記憶している。いわゆる戦後の、個人を尊重した教育のあり方がそこに現れていた。
しかし80年代頃から役所の育児指導が頻繁に入るようになり、90年代になると専門家や医者による子育てこそが正しいといった風潮が一般化されていった。結果若い親たちは、どこか窮屈で悩みながら子育てをしているように見受けられる。教育基本法の改定案に、新しく家庭教育の項目があることにショックを受けた。いわば、プライベートな空間である家庭に、法律が入り込むというのは、どういうことだろうか? 家庭教育へのますますの干渉が強まりはしないか。 支援という名目で、国家目標に合わせた子育て推進という行政の介入が始まらないとも限らない。これから子育てをされる親たち、そして何よりも子どもたちの心身への影響が心配である。
水島さつき(マガ9編集部)
みなさん!「伊藤真のけんぽう手習い塾」の「教育基本法」についてのコラムや、高橋哲哉さんのインタビューをお読みになりましたか? 現行の「教育基本法」を改めて読むと、日本国憲法と同じ、個人の尊厳の理念のもと、実にいいこと書いてあるなあ。(でも私、こんな教育ちゃんと受けたってけ?)と思いながら、今の教育の混乱は、絶対にこの教育基本法のせいじゃないとつくづく思う。与党の改正案について、いろいろと疑問に感じることはたくさんあるのだけれど、何よりびっくりしたのは、第5条の「男女共学」が削除されていること。削除された理由は、「男女平等がもう実現されているから」ということらしいが、ちょっと待ってよ!と言いたい。1999年から男女雇用機会均等法などが施行されてはいるが、実際はまだまだだと思う。夫婦別姓の法律化についてもまったく頓挫している日本は、国際社会からいっても、本当に遅れている。それなのに、「男女共学」を削除したら、ますます後退していくことだろう。私たち女性は、もっとこの点について、危機感を持ってもいいのではないか。
ほんの60年前には、女性は参政権を持っていなかった。人権も認められていなかったということを、忘れてはいけない。今の憲法を作るとき、シロタ・ゴードンさんが強く主張した、女性の権利を盛りこむことについて、日本政府側は当初、強い懸念を示したという記録が残っているのだから。
*「教育基本法改定」についての、みなさんからのご意見を募集します。改定反対へのアピール文は、このページに掲載させていただきます。(匿名希望の方はその旨をお書き添えください)