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鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

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30年前の決闘

 「決闘しよう!」と僕は言った。僕の本に対する批判だと言うが、これは単なる人格攻撃だ。便所の落書き以下だ。普段は、「美しい日本を守る」とか、「神州清潔の民」などと言いながら、この汚い罵詈雑言は何だ。それでも右翼か! と、カッとなった。血が逆流した。こんなものは文章ではない。論争も成り立たない。だから命のやりとりをするしかない。男らしく決闘に応じろ! と言った。
 30年ほど前だ。僕も若かった。今なら何を言われても気にしない。「反日だ!」「非国民だ!」「売国奴!」と右翼に言われたら、かえって名誉なことだと喜んでいる。「もっと言ってくれ」と思う。ところが30年前はそんな心の余裕がなかった。いや、純粋だったんだ。生真面目だったんだ。それに、右翼はこの愛する日本の〈代表〉だと思っていた。何があろうと、正々堂々と闘う。卑怯な真似はしない。それが右翼だと思っていた。
 それなのにこの汚い、卑劣な行為は何だ。許せない、と思った。右翼は自分の生き方、言動に命を賭けている。武士道の精神だ。だったら決闘に応じろ、と言った。短刀でもいい。日本刀でもいい。それが怖いのなら、素手でもいい。
 しかし、決闘は行われなかった。その男は卑劣にも、右翼の大先生に泣きついたのだ。「これから右翼を背負って立つ若い二人がこんなことで命のやりとりをするなんて勿体ない」と、その大先生に止められた。そして「手打ちの宴」まで用意された。お世話になってる先生だし、それ以上、無理は言えなかった。決闘が怖ければ、謝ればいい。その勇気もないのか、こいつは。そんな奴が右翼か、と愕然とした。

 決闘状を送りつけたのが悪かった。いきなり押しかけて、その場で闘えばよかった。そうしたら仲裁など入らない。だから、「次」はそれを実行した。この事件の翌年、同じように卑劣な人格、人身攻撃をする右翼がいた。論争など成り立たない。やるしかないと思った。

 血盟団事件の指導者、井上日召(にっしょう)は「一人一殺」で政財界の国賊を殺し尽くせば日本はよくなると思った。日召を慕う青年達に拳銃を渡しながら、こう言った。「殺す時、言葉を発してはいけない。黙って引き金をひけ。君たちは鬼でも蛇でもない。言葉を交わしたら情が移る。決意が鈍る。だから無言で射て」と。
 だから血盟団の人間は、「国賊!」とか「天誅!」という言葉も発してない。無言で射った。又、この直後の5・15事件の時。青年将校に襲われた犬養首相は、「待て、話せば分かる」と言った。それに対し、三上卓は「問答無用」と言って銃を発射した。

 うん、やる時はこれしかないと思った。その精神しかない。そう思っていた時、右翼の集まりで、偶然、その男を見つけた。近づいた。相手は驚いているが、文句を言われると思ったようだ。いきなり僕は殴りつけた。思い切り殴った。ボカボカ殴りつけて、殴り倒し、足蹴にした。アッという間だ。誰も止められない。
 やっと周りの人たちが異変に気づき、二人を止めた。相手は喚き、向かって来ようとする。「放してやれ。これは二人の遺恨だ。ここで決闘させてくれ」と僕は言った。でも、「じゃ、やれ」とは言わない。「ともかくやめろ」と周りの人たちは言うだけだ。こっちは殴り得だ。
 「悔しかったら、日時を指定しろ。いつでも決闘に応じてやる。素手でも短刀でもいいぞ」と相手に言ってやった。でも、言ってこない。30年たっても言ってこない。「お父ちゃんの敵(かたき)!」と言って子供が決闘を申し込んで来たら、それも返り討ちだ、と思っていた。

 若かったし、気が昂ぶっていた。今は反省している。会う機会があったら、襲撃を謝りたいと思う。取り返しのつかないことをしたと、自己嫌悪にかられる。
 それ以来、思っている。日本には〈論争〉なんて成り立たないと。自分の体験だけを基にして結論づけるのは乱暴かもしれないが、そう思う。
 相手の人格を尊重しながら、その思想、提言、考え方だけを批判する。それが出来たら理想的だろうが、そんな「立派な論争」はない。裁判で、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。これに倣って、「思想を憎んで人を憎まず」が出来ればいいが、無理だ。特に、思想的に近い人間ほど、人格攻撃になるし、下品極まりない論争(いや、悪口の言い合い)になる。「新しい歴史教科書をつくる会」が内部分裂し、お互いが月刊誌で相手を批判していた。学者どうしの論争なのに、「お前は夜中にFAXを大量によこした」「お前は大学では学生に馬鹿にされてる」といった低次元のやりとりばかりだった。

 人格攻撃しないで、思想だけを批判するという事はできないのか。と、佐高信さんに聞いた。最近、二人で『左翼・右翼がわかる!』(株式会社金曜日)という本を出した。その発売記念トークを2月9日(火)、八重洲ブックセンターでやった。その時、聞いたのだ。「うーん、理想論としては分かるけど。でも、人格攻撃をしないと面白くないんだよね」と言う。ある大柄な女性評論家に対し、「ウドの大木」と罵倒したこともあるという。
 佐高さんは月刊『創』で、「タレント文化人 筆刀両断!」という連載をやっている。他でも、偉い人を斬りまくっている。「佐高に批判されたらおれも一流だ」と思う人もいるだろうが、大体は喧嘩か絶交になるという。「反応は、男と女では、はっきり分かれる」とも言う。女性の方がしたたかだと言う。具体的なことを教えてもらったが、これ以上は書けない。
 それにしても佐高さんは偉い。勇気がある。自分の親しくしている人、最近知り合って懇意になった人もいるだろう。その人をもズバズバと批判する。よくやるものだと思う。普通なら、「せっかく知り合ったのだから」と、縁を大切にする。それなのに、縁など叩き斬ってもいいと思っているのだ。孤立無援の思想だ。漫画家の小林よしのりさんも、「個人原理」で闘っている。どれだけ親しくしていても、批判する時はズバズバやる。それで人間関係や縁が切れてもいいと思う。とても普通の人は真似できない。偉いし、勇気がある。
 僕には、それだけの勇気がない。どうしても批判する時は、当人と対談して、相手が反論できる場でやろうと思う。こっちが誤解してたら、すぐに謝る。論争は相手と向かって正々堂々とやりたい。でも、これは単なる〈臆病〉なのかもしれない。相手のいない所であろうと、正義は正義、間違いは間違いと、はっきり言うべきなのかもしれない。そして堂々と論破する。それが勇気なのかもしれない。しかし、そのあと「堂々とした論争」が出来るのだろうか。そう思うと弱腰になる。…と、今回は結論が出ないままに終わる。これからの考えるべき課題だ。

「どうせやるなら相手のいるところで」と思うか、
「どんな場でも間違いは指摘すべき」と思うか、
意見は分かれるところでしょうが、
そんなふうに悩む鈴木さんも、なんとも「らしい」?
ご意見・ご感想をお寄せください。

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