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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。
すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」
ポロポロと大粒の涙を流している。隣りのおばさんだ。7月3日、「川内康範さんを偲ぶ会」の時だ。川内さんは多くの人々に慕われたんだ。惜しまれて亡くなったんだ、と改めて思った。
亡くなったのは去年の4月。88才だった。1年を過ぎてからの「偲ぶ会」だ。川内さんは「月光仮面」「七色仮面」の作者だ。又、「花と蝶」「おふくろさん」「伊勢佐木町ブルース」「骨まで愛して」を初め、数え切れないほどのヒット曲を作詞した。この日は、八代亜紀、森進一、布施明などが次々と挨拶する。マスコミのカメラも多い。偲ぶ会だが、華やかだ。
だが、川内さんは芸能界の人ではない。少なくとも、そこに満足する人ではなかった。常に日本の現状を憂え、世界平和を考えていた。憂国の士だったし、正義の人だった。
1990年(平成2年)2月、「朝まで生テレビ」で「日本の右翼」をやった。僕も出た。一緒に出た他の右翼の人たちは皆、「テロは必要だ」「国が危機の時には命を賭けて守るのだ」と言っていた。僕だけが「テロ否定」と言い、他の右翼仲間からは顰蹙を買った。「裏切り者」扱いだった。
その直後、川内さんから電話があった。突然だ。高校時代から「月光仮面」の作者として知っている。そんな高名な先生からの電話で恐縮し、緊張した。「テレビを見た。君は勇気がある。偉い。一度会いたい」と言う。田町のホテルで会った。
「今、言論で闘うのは当然だ。それなのに“テロしかない”などと言うのは“逃げ”だ」と川内さんは言う。「たとえ何万人、何十万人の反対があっても、一人で言論で闘う。それが男だ」と言う。それは川内さんの闘いであり、人生でもあったようだ。この時以来、何度も会った。一水会の講演会にも来てくれた。
亡くなる直前だった。右翼の先輩が亡くなり、田町のご自宅に弔問に行った。木村三浩氏(一水会代表)と二人だ。帰り、田町駅まで歩いた。「あのホテルが川内さんの常宿なんだよね」と話し合っていたら、「おーい、鈴木君」と呼ばれた。ホテルの外の店でコーヒーを飲んでいたのだ。そこで、しばらく話し込んだ。「日本の政治を変える秘策がある」と言う。ちょっと突飛な話だ。でも、政治家のトップに会い、その計画を進めているという。
その直後に亡くなったので、「日本改造計画」は幻に終わった。残念だ。この人は、根っからの正義漢だし、憂国の士だと思った。小説や作詞だって、そのためにやっている。そんな気がした。たとえば、城卓也が歌って大ヒットした「骨まで愛して」という歌がある。あれは南方の島に戦死者の遺骨収集に行き、そこでヒントを得て作詞したという。驚いた。全くの恋愛の歌かと思ってたのに。川内さんでなくては出来ない。思い切った発想の飛躍、転換がある。
又、こんな話も聞いた。「月光仮面」は額に月のマークがある。あれはイスラムだと言う。何を言ってるのだろうと思った。でも、考えてみると、1960年代、「月光仮面」の次は「七色仮面」で、その次は「アラーの使者」だった。だから本当なのだ。昔から、イスラムに対する憧れがあったのだろう。アメリカに対抗するにはイスラムしかないと思っていたのかもしれない。
だから、イラク戦争の時は本当に心配していた。「俺がやめさせる。アメリカ、イラク両国の大統領に手紙を書く」と言い、実行した。イラクに20回も行き、イラク政府に信任の厚い木村三浩氏がフセインに手紙を届けに行き、丁寧な返事をもらった。しかし、アメリカは受け取りを拒否した。又、国内でも「そんなことをしても意味はない。パフォーマンスだ」と批判する人もいたが、違う。本気なのだ。
グリコ・森永事件の時は、記者会見し、「俺が一億円を出す。だから犯人は脅迫をやめろ!」と言っていた。なかなか言えない。「月光仮面が終戦提案!」とスポーツ新聞には書き立てられた。しかし、犯人側(「怪人21面相」と名乗っていた)はこの提案に応じず、「終戦」は失敗に終わった。「月光仮面」対「怪人21面相」の闘いだった。
こう書くと、「右翼的な人」「極右」と思われるかもしれない。しかし、違う。排他的な右翼をよく叱っていたし、「保守」でも「右翼」でも「反動」でもなかった。あくまでも、正義、憂国の士だった。「常識」を実行した人だった。ただ、それを言う時に、声が大きくなり、強くなる。だから、「右翼的」と誤解されただけだ。
川内さんは「アメリカの正義」を疑い、徹底的に批判した。「原爆投下を絶対に許さない」と言っていた。『アメリカよ、驕るな』(K&Kプレス)や、『姓はアメリカ、名は国連:こんなもの信じられるか』(ぴいぷる社)といった本も出している。反米だ。
しかし、「アメリカから与えられた憲法は叩き返せ!」なんて言わない。そこが右翼とは違う。又、「9条を改正し、強力な国軍を持て!」とも言わない。それどころか、「9条は必要だ」と言っていた。一水会の講演でも言っていたし、芸能人の集まりでも言っていた。
7月3日の「川内康範さんを偲ぶ会」で挨拶した湯川れい子さん(作詞家)も言っていた。「川内先生は右翼的な人だと思われているが、全く違います。二度と戦争が起こらないように、世界の平和を第一に考えていました。アジアの平和を考えたら9条は守るべきだ、とも言ってました」
エッと意外な顔をした人もいたが、これは本当だ。戦争を体験した世代だからこそ、強くそう思うのかもしれない。「お久しぶりです」と挨拶し、その話を湯川さんとした。10年以上前だ。「ピースボート」で湯川さんと一緒だった。世界を回る船だが、一度だけ、「国内クルーズ」をやった。屋久島まで行ったのだ。縄文杉を見たくて乗船した。しかし、実は僕は船に弱い。まあ、屋久島までなら大丈夫だろう。頑張ろうと、決死の覚悟で乗った。だが、ダメだった。ひどい船酔いで、起き上がれない。往復5日間、ずっと寝た切りだった。この時の「ピースボート」には若者よりも、「反戦平和」のおばさん達の方が多かった。露骨に馬鹿にされた。「右翼のくせに、だらしがない!」と。思想は関係ないだろうと思ったが、こっちは「死に体」で言い返せない。
屋久島に上陸した2日間だけは、何とか歩けた。湯川さんたちとタクシーに相乗りし、島内を見学した。「あの時は楽しかったですね」と湯川さんは言うが、僕にとっては船酔いの苦しさの方が思い出される。でも、この時、湯川さんだけでなくライターの星川淳さんとも知り合った。今は、「グリンピース・ジャパン」の事務局長だ。「アメリカ原住民の平和の思想が、アメリカの独立宣言や憲法に取り入れられ、それが日本国憲法にも入っているんです」と星川さんは言う。
知らなかった。そういう視点は自分に全くなかったので驚いた。
話を戻す。川内康範さんだ。9条の話を含め、もっともっと話を聞きたかった。「日本改造計画」も実現してほしかった。聞いておきたかったことが沢山ある。でも、いつでも聞ける、という甘えがあったんだ。強い人だし、不死身だと思っていた。なんせ、「月光仮面」なんだし。憂国の士として、もっともっと発言し、行動してほしかったのに。残念だ。
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月光仮面の「月」が、イスラム教のシンボルから来たものだったとは。
「マハトマ・ガンディーの非暴力平和主義を評価していた」との話もある川内さん、
ぜひお話を伺ってみたかった、と思います。
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