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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。
すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」
昔から疑問に思っていた。何故、教師たちは「読書感想文」なんて書かせるんだろうと。全く、意味がない。それに、面白くない小説ばかりだ。暗い、訳の分からない小説が多い。「自分はこんな暗い小説を読んで気分が鬱鬱とした。悔しいから生徒たちにもこの気分を味わわせてやれ」ということなのか。これじゃ、「不幸の手紙」を出すのと同じだ。
高校1年の時の読書感想文が、夏目漱石の『こころ』だった。これで漱石が嫌いになった。なんだ、この暗い小説は、と。『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』など、明るく、楽しく、それでいて考えさせる小説は沢山あるのに。でもそれは大学を出てから分かった。<苦悩>がないと、「奥深い小説」ではない、という教師の愚かな先入観があるのだろう。
数年前、女子大生の読書感想文を代筆した。前に予備校で教えた生徒に泣きつかれて書いてやったのだ。芥川龍之介の『河童』だ。不条理な小説だ。訳の分からない小説だ。でも、ユートピア小説かと思い、感想文を書いた。「9条」が世界中の憲法に取り入れられたら、こんな平和なユートピアになるんだろう。(今なら、そう思う)河童の社会は、人間よりも「進んでいる」。お腹の子に向かって、「オーイ!」と呼びかけ、生まれてきたいかどうかを聞く。確認してから、誕生させる。「勝手に産みやがって」という芥川の怨みがあったのかもしれない。
さらに、感想文を書かせるというのは教師(大学教授)の悩みや戸惑いがあったのだろう。この小説をどう読んでいいのか分からない。「よし、じゃ学生に聞いてみよう」。それで、感想文を出させたんだ。学生も分からないから予備校の先生や、先輩に書いてもらう。こっちの方が、河童の世界よりも、もっと不気味で、不条理だ。
そして今回だ。生徒の代筆ならまだ分かる。でも、兄貴に代筆を頼まれたのだ。兄貴だから僕より年が上だ。70を過ぎてるはずだが、元気だ。ひとりで、ロシアやイタリアに旅しているし、英語のサークルにも出ている。以前は商社マンで、アメリカの支社長も長くやっていた。だから英語は堪能だ。何も英会話のサークルなどでる必要はないだろう。いや、時々、英語で喋りたいのかもしれない。ネイティブな英語も披露したいのかもしれない。
その英語の教師に宿題を与えられたそうな。カフカの『変身』を読んで感想文を書けと。英語のサークルなのにそんな宿題があるのか。読んで訳せというのなら分かるが…。不条理だ。
さらに不条理なことに、「お前が書いてくれ」と兄貴に頼まれた。「俺は文学にはあまり関心がないし。邦男は物書きだから頼む」という。馬鹿な。断固拒否しようと思ったが、普段、世話になっているから強いことは言えない。泣く泣く読んだ。この小説も不条理だ。でも嫌いではない。何回も読んでいる。そのたびに全く別のことを思う。その意味では、「感想文」を求める小説としては唯一、理想的な小説かもしれない。
兄貴が英語サークルでお世話になっている高橋先生に提出してくれという。しかし、いいのかな。弟が代筆して。それも堂々と。本当なら、「弟はこんなことを言ってたが、住んでいた世界が偏向していたからだろう。愚かだ。私はこう思った。そして弟の過ちを正してやった」とでも書けばいい。でもそんな余裕もないのか。
それに、高橋先生もおかしい。関係のない弟の文章をもらってうれしいのか。僕だったら怒って破り捨てる。あるいは、誰でもいいから「感想」を聞いてみたいのか。
文句はこの辺でやめる。『変身』は読むたびに、全く新しいことを感じる。読む人間を変身させる。僕は7回読んだから、7回、変身した。誰でも変身願望がある。変身して楽しいのは、他人の視線が一変するからだ。不美人が美人になる。太ってる人が痩せる。テレビでやっている「ビューティ・コロシアム」は毎回見ているが、そんな人間ドラマがある。他人の視線が変わるということは、「別の世界」に生まれかわることだ。
「20キロ痩せました。今まで20キロの子供をおんぶしてたようなものです。それが無くなりました!」と喜んでいる。じゃ、20キロの子供はどうしたんだ。人殺しめ、と思ったりしたが、そう考える僕が不条理なのだろう。
ともかく、「美しく変身」「スッキリ変身」…と、「変身」はいい意味にばかり使われている。「変身」そのものが、いいことのようだ。でも、カフカの『変身』は違う。残酷だ。ある朝、目覚めたら虫になっていた。どうする、どうなるグレーゴル・ザムザ君!だ。普通、そんな変身は考えつかない。一瞬でも、思いつかない。
しかし、虫になったグレーゴルのことをカフカは詳しくレポートする。「何故?」なんて聞かない。ただ、虫になったグレーゴルがいるだけだ。そして、驚く家族。家に来た人々とのトラブル。一体、この小説は何なんだ。分からない。分からないから他人に聞く。高橋先生だって「生徒」に聞く。でも、いいんだ。勝手に読めば。勝手に考えれば。
息子が虫になって、父母はどれだけ嘆いただろう。驚いただろう。そう思って読んだら、あまり嘆いてない。7回目に知った新事実だ。もしかしたら、どうでもいい存在だったのか。グレーゴル君は。虫以下の存在として無視されていたのか。
虫になったというが、人間は元々は虫だ。中国の漢字ではそうだ。「虫が好かない」「腹の虫がおさまらない」という。この時の「虫」は、「人間」なんだ。人間は元々、虫だったから、虫になっても当然だ。そうだ。新左翼の内ゲバが盛んだった頃、敵対党派を「青虫!」「ウジ虫軍団め!」と罵って襲撃し、殺した。虫なら殺していいのか。でも、これでは自分の方が「虫以下」になってしまう。
カフカの『変身』は、現代の「ひきこもり」「不登校」かもしれない。本当は虫ではないのに、ひきこもった子供や青年のことを、そう予言したのかもしれない。あるいは、変身願望を持つ世の若者(老人もか)への教訓、警告かもしれない。「いいことばかりじゃない。こんな残酷な変身だってあるんだ。それに比べたら今のほうがいいだろう」と。
今まで、この『変身』についての感想、評論を100編ほど読んできた。でも漫画家・相原コージの『コージ苑』が最高だったね。『広辞苑』にかけたギャグ漫画だ。こ汚い独身男性がいる。ある朝、目覚めたら小泉今日子になっていた。小泉が若くて、ピチピチしていた頃の漫画だ。「変身」した男性は大喜びだ。「これがキョンキョンの乳房か。これが…」と、いじり回し、楽しむのだ。うん、こんな変身ならいいなと、全ての男達を納得させた。これこそ最高の「読書評」だと、カフカだって思ったろうよ。
不条理な小説は、こうして不条理に楽しんでいればいい。そう思いながら7回目の読書を終えた、はずだったが、気になる部分を発見した。父母も妹も、虫になったグレーゴルのことを、それほど悲しんでも嘆いてもいない。妹は優しく餌(食事)を運んできてくれる。でも、ある時、一家が<マジ>になる。これでいいのか。こんなことは沢山だと思う。キレる。
<「これを振り離さなくちゃだめよ」と妹は父親に向かって強く言った。母親は咳きこんでいるので、なにも聞こえないのである。「これはお父さんとお母さんを殺しちゃうわ。そうですとも。あたしたちみたいに、こんな苦労をして仕事しに行かなければならないっていうのに、いったいどうして家の中のこんな永久の苦しみに辛抱できて。あたしだってもうそんな辛抱はできないわ」こう言って妹はわっと泣き出した>
<「放り出しちゃうのよ」と妹が言った。「それ以外にどうしようもないわ。お父さん。これがお兄さんのグレーゴルだなんていつまでも考えていらっしゃるからいけないのよ。あたしたちがいつまでもそんなふうに信じこんできたってことが、本当はわたしたちの不幸だったんだわ」>(高橋義孝訳 カフカ『変身』新潮文庫)
ゲッと思った。僕のことじゃないか。「これ」と言ってる。虫扱いだ。虫のように嫌われる右翼を40年もやってきたからといって、「これ」はないだろう。家族に迷惑をかけ、親類に迷惑をかけてきた。警察だって聞き込みに行っただろうし、「こんな奴、いっそ死んでくれたら」と思ったんだろう。カフカは僕のことを書いてたのか! 驚きだった。ショックだった。今まで、全く気がつかなかった。それを気付かせようと兄貴と高橋先生は、こんな課題を与えたのかもしれない。申し訳ない。身が縮む思いだ。そう思ったら、本当に縮んだ。固くなった。ギェッ、本当の虫になっちゃった!
「不条理小説の代表格」とも言われるカフカの『変身』。
理由も何も明かされないままの主人公の「変身」、
そしてそれに対する家族の反応が何を意味するのか。
解釈はいろいろとありそうです。
読み直してみれば、新たな発見があるかも?
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