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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。
すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」
下村湖人の『次郎物語』を読んで、子供って残酷だな、と思った。弟だけが両親に可愛がられるのに嫉妬して、弟のカバンを便所に捨てる。又、セーターにトンボをとまらせて、いきなり胴体を引き抜く。セーターにはトンボの頭だけが残る。それを何十匹も飾る。首狩り族だ、と次郎は自慢する。いやだな、と思った。
僕は気が弱い少年だったので、そんな残酷なことはしたことがない。学校で、「カエルの解剖」をした時も、休んだ。「子供のうち、小動物を捕まえたり、標本にしたり、殺したりすることはいい事だ。それで生命の大切さが分かる」と大真面目に説く学者もいるが、僕は反対だ。トンボやカエルからエスカレートして、猫殺しになったら大変だ。「いや、その間には大きな壁がある。トンボ、カエル殺しはそれで終わって、絶対に猫殺しに移行しない」とその学者は説く。そうだろうか。
なぜ、猫殺しにこだわるのか。「大人になって兇悪犯罪をする人は、子供の頃、猫殺しをしていることが多い」という説があるからだ。少年犯罪もそうだ。神戸の少年事件に始まり、そうしたケースは多い。
たぶん、これは猫の復讐だろう。理由もなく殺された猫の怨念が取り付くのだ。昔、「化け猫映画」がよくあった。猫は執念深いのだ。昔は、殺した人に化けて出て、呪い殺した。今は、そんな単純ではない。殺した人を追いつめて、殺人犯にし、国家の手で殺させる。手がこんでいる。
猫は執念深い。その点、犬はカラリとしている。南極探検隊に捨てられ、置き去りにされても、必死で生き抜き、そのあとに訪ねた探検隊員に喜んでなついていた。捨てられた怨み言も言わない。又、主人が死んだ後も毎日、出迎えに行った「忠犬ハチ公」。みな、人間によく仕え、人間の役に立っている。いじらしい。
山本直人『ネコ型社員の時代』(新潮新書)を読んだら、そんな人間につくす「働き者」の犬の話が出てきた。警察犬、救助犬、麻薬犬…と、よく働いている。企業社会のモーレツ社員のようだ。ところが、猫には「働き者」のイメージは全くない。警察猫、麻薬猫なんて、とてもない。
今までの企業では、上の言うことをよく聞く、滅私奉公、モーレツな「イヌ型社員」が重宝され、彼らが企業を支えてきた。ところが、それで行き詰った。今こそ、「ネコ型社員」の時代だと、山本は言う。ネコ型社員とは、こんな特徴を持っている。
1.滅私奉公より、自分を大切にする。
2.アクセクするのは嫌だが、やる時はやる。
3.自分のできることは徹底的に腕を磨く。
4.隙あらば遊ぶつもりで暮らしている。
5.大目標よりも毎日の幸せを大切にする。
「ネコ型社員」は、実は昔からいた。しかし、皆がモーレツに働き、乗り遅れないように頑張らねばと思った。日本の職場に焦りと不安が溢れた。嵐の90年代は会社員に「新たな頑張り」を強いる時代だった。そんな嵐の中で、昭和ネコ型社員は居場所を失っていた。
<かくして、職場はどうなったか。かつてないギスギス感が溢れるようになった。こう考えていくと、あの故事を思い起こしてしまう。ネコの効用を忘れて「魔女狩り」をした結果、伝染病の流行という手痛いしっぺ返しをくらったヨーロッパ社会。日本の会社も、昭和ネコ型社員を失った結果、「職場のギスギス」という悪性のウイルスを蔓延させてしまった。このウイルスは空気感染をして、かつ絶滅は難しい>
だからこそ今、会社の活性化のためにも、「ネコ型社員」が必要だという。「逆境のときこそ、ネコの手を借りよ!」と言う。中世ヨーロッパで、「魔女狩り」の嵐が吹き荒れた時、ネコも大量に殺された。自由、気ままな性格、行動は、「魔女の使い」と思われた。不気味でもあった。それに犬と違い、人間の実用にならない。ネコを大量に殺した為に、ネズミが大発生し、ペストが大流行した。ネズミが運んだのだ。だとすれば、これも「猫の復讐」だ。
前に書いたが、日本に初めて猫が来たのは仏典の「護り神」としてだ。船旅で、ネズミに仏典が食われるのを防ぐ為だった。日本人の支柱となる宗教・精神を守ったのだ。その大恩ある猫を殺したのでは、復讐もしたくなる。
ペストを初めとした伝染病の流行は、殺された猫の怨みであり、「魔女」の怨みでもある。ネコも魔女も、皆、冤罪だった。あるいは、当時の「ネコ型」人間が「魔女」だと名指しされ、捕えられ、殺されたのだ。体制に従わない、上司の言うことに従わない、自分勝手だ。…という理由で捕まったのだ。今の裁判も同じだ。自由勝手に生き、自分のポリシーに従って生きる人間が、まず第一に「疑わしい」と目をつけられ、「犯人」にされていく。帝銀事件、名張ぶどう酒事件、ロス事件、和歌山毒カレー事件…と、皆同じだ。
それと、右翼や左翼といった人々も、「魔女」にされてきた。そして、「魔女狩り」されている。今、どこの大学でも、ビラは禁止、立て看板は禁止だ。勿論、学生集会をやったり、マイクで演説も出来ない。法政大学では、立て看板を出しただけで学生が逮捕された。大学側はすぐ警察をよび、官憲に学生を売り渡すのだ。「大学の自治」も「学問の自由」もない。もうそこは、<大学>でもない。
いや、日本全体がそうだ。立川では、郵便受けにビラを入れただけで逮捕された。政府や警察は、それで「清潔な国」「静かな国」にしようとしている。でも、活気のない社会だ。反対者、異端者、右翼・左翼といったうるさい「ネコ型人間」を排除した社会は、必ずそのシッペ返しがくる。権力者の言いなりになって、何でも言うことをきく「イヌ型人間」ばかりになる。そして「清潔なファシズム」の到来だ。
気ままなネコと忠実な犬、
どちらを(どちらも)可愛いと思うかは人それぞれ。
でも、最近の「清潔な国」「静かな国」への動きを、
息苦しいと感じるのは鈴木さんだけではないのでは?
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