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鈴木邦男の愛国問答:バックナンバーへ

鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

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第18回「憲法9条は、戦争放棄と戦争箒(ほうき)をうたっている」

 「週刊文春」(1月29日号)で上杉隆、佐藤優、荻原博子の三氏が「徹底討論」している。「麻生自民党はこれだけ日本をダメにした」という題で。荻原さんが、「首相の言ってることはコロコロ変わる」、「ブレてる」と批判すると、佐藤氏はこう言うのだ。いや首相も官僚も「自己保身」という観点からは一貫している、と。彼らの行動原理を理解するには、猫を研究したらいい、と。
 「猫は善悪の基準ではなく、快・不快で動きます。不快な選択は極力避けて、気持のいい選択をする。それに自己保身という基準が合わさると、普通の人からすると理解できない矛盾した行動になるのですが、本人の中では一貫しているんです」
 そうか。首相も官僚も、人間ではなく、もうネコなのだ。この地球の支配権は人類からネコに移ると予言した人がいたが、もうすでに人間の上層部は「ネコ」化しているのだ。では、なぜ佐藤氏がそんなことを理解できるのか。それは佐藤氏も「ネコ」派だからだ。佐藤氏は月間『Will』で「猫はなんでも知っている」という連載エッセイを持っている。ネコ派だ。だから、講演会で「私は右翼です」と挨拶するのに、「9条は大切です。守らなければなりません」と言う。ネコ派だからだ。ネコが言わせているのだ。
 でも麻生や官僚はネコ派か。9条派か。そうとはいえない。ただ、ネコの行動原理を学んでいるだけだ。地球の「次の御主人様」に無意識に臣従しようとしているだけだ。

 先々週書いたことで追加する。念のためにTSUTAYAに行って『天地創造』のDVDを借りて来て、見た。「ノアの方舟」の場面だ。巨大な船に、すべての動物を一つがいずつ、そしてノアの家族が乗る。それで大洪水を生き延びる。一般の動物は干草を食う。虎やライオンはどうする。ノアの妻は「ミルクを与えなさい」と言う。羊や牛のミルクをやればいいと言う。「そんなので大丈夫なの?」と子供は聞く。「大丈夫よ。大きな猫なんだから」。なるほど、と思った。「同じネコ科」だから、というだけではない。虎やライオンは「大きな猫」なんだ。猫だからミルクをピチャピチャ飲んで満足する。ネコこそ、世界平和の思想そのものだ。
 『ライオンに肉食をやめさせる法』という本が昔あった。今はトンデモ本として紹介されているだけだ。しかし、「旧約聖書」では、大昔に実現していた世界だ。又、これから先に再び実現する世界だ。

 不良中年の同志である嵐山光三郎さんの本に『断固、不良中年で行こう!』(朝日新聞社)がある。その中で、憲法9条の「戦争放棄」について疑問を呈している。

 <「放棄」という言葉は、たとえば「責任の放棄」という使われ方がある。「放棄」とは「本来的に有していたものを喪失させる」行為である。「責任の放棄」とは、「責任を負わない」ということで、悪い意味に使われる。授業をしない高校教師は「授業放棄」、家に帰らぬ父は「家庭放棄」、会社をさぼれば「職場放棄」で、いずれもロクなもんじゃない。してみると「戦争の放棄」という書き方は、「本来はしなければいけない戦争を無責任にも放棄する」というニュアンスになる。これは第9条の考え方に反する内容で、第9条の精神を尊重するのであれば、はっきりと「戦争の禁止」と表現すべきではなかったか>

 そうか、と思った。今まで考えたこともなかった。今、手元の『和英併用 机上事典』(誠文堂新光社)を見ても、「放棄」は「なげすてること。また、権利などを使わずにすてること、abandonment 」と出ている。権利をもってるのに、なぜか、すててしまう。という意味だ。では、憲法の原文が abandonment だから、そうなったのか。じゃ、アメリカ側も「いつかは再軍備するだろうが、とりあえずは軍備をやめとけ」という意味だったのか。そう思って「原文」を見た。そうしたら、「放棄」は abandonment でもないし、abolishment でもない。abolition だけでアメリカでは「奴隷制度廃止」も意味している。これだったら、全く問題はない。奴隷制と同じように戦争も恥ずべき悪であり、根絶するのだ。という断固とした決意を感じさせる。
 ところが違う。原文では、renounce だ。三省堂の『最新コンサイス英和辞典』によると、renounceは「(正式に)放棄する、棄権する、断念する」と出ている。強い言葉だ。「本当はその権利があるが、今はともかく捨てる」といった意味はない。翻訳した時に間違ったのだろう。あるいは、他にいい訳語がなかったのか。「禁止する」では、一般に使われている言葉だから軽いと思ったし、「投棄する」では、ゴミを捨てるように思われる。だったら、重々しい「放棄」しかないと思ったのだろう。

 だったら、「戦争放棄」をもっと徹底するために、9条を改正しよう、という運動があってもいい。「放棄する」を改めて、「禁止する」「投棄する」にする。でも、文章の格調は低くなるな、と思った。「どうしたらいいんだろな」と、僕の愛用の「戦争放棄」に相談した。これは去年、九条連の人からもらったものだ。「戦争放棄」のミニチュアというか、マスコットだ。でも、そんな抽象的概念を形にすることはできない。仕方なく、箒の形で表した。掃除の時、はく用具のほうきだ。胸につけたり、携帯のストラップにしていた。机の上を掃除するのにも便利だ。ところが最近は、ネコがジャレついて遊んでいる。「ネコじゃらし」になってしまった。でも、ルーツをたどると「二人」は一緒なんだし、いいだろう。同じ「世界平和」の精神なんだし。

 実は、「放棄」と「箒」も、元々はルーツが同じだ。言霊学的見地からはそうなる。今まであったものを掃いて、捨てるのだ。ゴミだって、前は必要だったものもある。しかし、捨てるのだ。きれいにする。そういう意味がある。
 掃除する道具としては「箒」の他に、「はたき」がある。ちりを払う道具で、障子や本箱にバタバタとかけて、ほこり、ちりを払い落す。だったら、9条も「戦争放棄」ではなく、「戦争はたき」にしてみたらいいかもしれない。うん、これは名案だ。と思っていたら、「戦争放棄」で遊んでいたネコに笑われた。「その場の思いつきだけなんだよな、お前は」。そして、「右翼放棄め!」と言われた。じゃ、「右翼箒」のミニチュアを作って、第二の「ネコじゃらし」にしよう。ネコも喜ぶだろう。
 「そうか」とここで気がついた。「戦争放棄」と訳した人は、本当は「箒」のことも考えていたのだ。この箒に乗って、戦争のない世界へ飛んでゆけると。9条は「魔法の箒」になると。美しい夢だ。メルヘンだ。いいことではないか。

「戦争」を掃いて、はたいて、捨てる。
そんな「ほうき」や「はたき」があったなら…。
9条がその「魔法の箒」になるかどうかは、
きっと私たちにかかっているのです。
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