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鈴木邦男の愛国問答:バックナンバーへ

鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男が「マガジン9条」の連載コラムに登場です。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて、
会いたい人に会いにいき、「愛国問答」を展開する予定です。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

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第6回「100年後のオリンピック」

 「鈴木さんはもう右翼とか左翼といった枠には嵌まらない。超えている。むしろ、一人のアスリートと言ったほうがいいでしょう」。そう紹介された。ある大学での討論会の時だ。えっ、アスリートか、と驚いた。

 でも、アスリートと言ったら陸上競技の選手など、スポーツ選手のことではないのか。辞書を引いてもそう書いている。あるいは、社会運動、政治運動、市民運動をする人も含むのか。いや待てよ。右翼や左翼の運動をする人も、実はアスリートかもしれない。だってデモをやる。集団で走る。機動隊に追われて全力疾走で逃げる。投石する。火炎瓶を投げる。ゲバ棒で殴り合う。全て、「スポーツ」だ。激しいスポーツだ。街宣車で抗議する。怒鳴る。これも「スポーツ」だ。「格闘技」だ。

 そして、これらは消えゆくスポーツだし、格闘技だ。その証拠に、投石、火炎瓶などはもう見ない。デモも、はやらない。あったとしても、小規模の、おとなしいものだ。昔は。ジグザグデモとか、フランスデモとか、激しいものが沢山あった。ゲバ棒で機動隊と乱闘するシーンも今はない。せいぜい、小ぜりあいだ。大学には立て看板もないし、ゲバ文字もない。

 ゲバ文字というのは文字そのものが闘っているような激しい書体の文字だ。それを書ける職人的活動家もいない。これらは「日本文化」だ。保存する必要があるだろう。中国にならって日本も「革命博物館」を作り、これらの革命文化を保存したらいい。中国とは違い、「失敗した革命」だ。だから、その教訓も含めて、闘いの記録を残したらいい。

 立て看板を作り、ゲバ文字を書く活動家は、その博物館の専属の職員として雇い、その技術を実演させたらいい。その職人的活動家が死に絶えてもういないのなら、鑞人形を陳列してもいい。それで電気で動くとか。全学連、全共闘の勇ましい闘いの映像も流す。「我々は・・・」という独特のイントネーションの演説も、「話し方教室」として教えたらいい。「イギなーし!」「ナンセンス!」といったかけ声の出し方も教える。今だって何かに使えるだろう。

 「日本のレーニン」といわれた獄中20年の塩見孝也さん(元赤軍派議長)もまだ健在だ。この人に「革命博物館」の館長になってもらったらいい。あるいは「人間国宝」にして、そこに住んでもらったらいい。獄中27年の連合赤軍兵士・植垣康博さんも生きている。国家公務員にして、ここで働いてもらったらいい。(革命博物館は国立なんだから)。北朝鮮にいる「よど号」グループも、ここで仕事してもらったらいい。あの時代、ベトナム戦争に反対し、日本政府が出来なかった反米闘争を闘ってくれたんだ。あたたかく迎え入れたらいい。

 これで「日本文化」の保護は出来る。もう一つの「武闘」の話だ。これは「古武道」として残し、日本政府が保護する。あるいは、オリンピックの競技に加えてもらう。投石、火炎瓶投げ、ゲバ棒なんて、立派に古武道の競技になる。今でも「古武道大会」に行くと、手裏剣とか鎖鎌(くさりがま)などの演武をやっている。それと同じように残してやったらいい。あるいは、革命博物館を東京ドームのような巨大なものにして、そこでルールを決めて闘ってもいい。「手裏剣VS投石」とか、「鎖鎌VS 火炎瓶」とか。エキサイティングな試合が見られるだろう。

 でも、そこまでやるのなら、オリンピック競技に加えてもらって世界の人々に見てもらったらいい。「馬鹿な、そんな野蛮なものを平和の祭典に入れられるか!」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、それはオリンピックの精神を理解していない人だ。オリンピックは政治を離れて、競技を通じ世界の人々が知り合い、平和的に仲良くすることだ。それと同時に、「殺し合いの道具」を「スポーツの道具」に変えてきた場だ。9条の精神と同じだ。だからよく聞いてほしい。

 オリンピック競技は、ほとんどが元々は「殺しのテクニック」だった。戦争の技術だった。少なくとも初期の競技はそうだ。だって「槍投げ」とか「砲丸投げ」なんて、そうだろう。実際に、人間を殺す技術だった。だからといって、藁人形をつくって、心臓に槍が命中するのを競うのでは残酷だ。だから、どこまで長く投げられるかだけを競っている。棒高跳びだって、城壁を飛び越えるための技術だ。マラソンは闘いの伝令だ。すべては「戦争の技術」だ。ボクシング、レスリング、柔道も、敵を制圧する為の「闘いの技術」だった。それを、スポーツにし、「平和の祭典」に入れる。素晴らしい。発想の転換だ。

 国家には軍隊が必要だ。戦争も必要だ。それしか国家間の争いを解決する方法はない・・・そう思っている人々が多い。日本だけが9条を持つ。その「常識」を変えた。「戦争の技術」を平和の祭典に取り入れたわけだ。つまり、9条はオリンピックの精神なんだ。

 いつかは、世界中の軍隊がなくなる。そして、国家間の争いも、スポーツで決めることになる。サッカーでもいいし、格闘技でもいい。そうなる。「それでは不十分だ」「そんな事で決められたら嫌だ」という人はいる。でも、集団で殺し合いをやるよりはましだ。

 そんな理想の社会になるまで、オリンピックはまだまだ必要だ。ゲバ棒競技、投石競技、火炎瓶競技も、オリンピックの正式種目に入れて、それで平和的に競わせたらいい。

 そうなると、オリンピックも「国別」だけでは不十分だ。「思想別」「宗教別」の闘いも入れたらいい。柔道では、国内で「産業別選手権試合」をやっている。流通部門、出版部門・・・と分けて、そこから勝ち上がってくる。同じことを政治部門、宗教部門でやったらいい。共通ルールで共産党と新左翼が闘う。伝統右翼と新右翼が闘う。その反体制部門の勝者と警察が闘う。警察は毎日練習しているのだから、反体制部門にはハンディを与えてもいい。

 選手も興奮し、応援団も興奮するだろう。応援団同士の乱闘もあるだろう。あってもいい。昔のように学生運動で殺し合いをやるよりは、いい。実際に戦争をやるよりはいい。断言する。100年後はそうなっている。嘘だと思うなら、それまで生き抜いて確かめたらいい。

「闘いの技術」を「平和の祭典」にする、
その発想の転換が可能だったのなら、
鈴木さんのいう「国家間の争いもスポーツで決める」時代も、
決して絵空事ではないのでは? と思わされます。
100年後のオリンピック、ぜひ見てみたい!
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