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今週のキイ

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 この国は壊れかけている。なぜか?

 国家において責任ある立場の人たちが、まるで真実を語らなくなったのだ。
 いや、真実を語らぬだけならば、まだいい。この人たちがしきりにウソを吐く。それも、すぐにバレるようなウソを吐いて、まるで恥じない。

 責任者たちが人を騙し続けているような国家が、壊れていかないわけがない。根元から腐り、やがて本体がガラガラと音をたてて崩れていく。そんな悪夢が現実になろうとしている。

 政治家も教育者も官僚も、平気でウソを吐き続ける。
福島・和歌山・岐阜などの知事という地方の権力者たちもみなウソにまみれて辞めていく。

 だから私たちは、ウソを暴き批判し続けていかなくてはならない。
 このコラムは「そんなに人の悪いところばかり暴き立てて何が面白いの?」などという批判も受けたけれど、黙り込んだら負けてしまう。黙っていることは自分たちの国の崩壊に手を貸しているようなものだ。
 そうは思いませんか?

 だから、悔しいけれど、今週のキイ・ワードは

嘘(うそ)
 


 1. 青森県のタウンミーティングにおける
   やらせ疑惑の「うそ」


 この報道には呆れ返った。でも、呆れ返りながら、「そういうことがあってもおかしくはないよな」と納得してしまう自分にも呆れる。もうそんなことが当たり前に行われているとしか思えないこの国の状況が悲しい。

 文部科学省の「教育基本法改定」に関する内閣府主催のタウンミーティングで、出席の発言者に最初から教育基本法改定に賛成するような発言内容を頼み込んでいた。しかも、ご丁寧に「セリフの棒読みにならないように」との注意書きまであった。
 本当に呆れるではないか、「意見」ではなく「セリフ」なのだ。つまり、このタウンミーティングとやらを主催した政府・官僚たちは、最初から意見など求めてはおらず、教え込んだセリフで形さえ整えればいい、と考えていたということになる。
 税金を使っての茶番劇。
 タウンミーティングなるものが、あたかも国民の声を広く聞くためのもの、という体裁をとりながら、その実、国民を自らの都合のいいほうへ誘導するための姑息な手段であることが、これではっきりしたわけだ。

 しかしここでも腹立たしいのは、このイベントの責任者である官僚が「国民の皆様の活発な意見表明の援けになるように、多少のサジェスチョンをしただけ」と開き直ったことだ。
 「活発な意見表明をさせないため」の言い間違いではないか。

 これが「うそ」でなくて何だろう。

 しかもこの「やらせ」には、さらに「うそ」があった。当初、文科省は「当方が依頼した方は駐車場がいっぱいで入場できず、結局発言はしていなかった」と言っていたのだが、これも真っ赤な「うそ」。はっきりと挙手をして発言していたことがバレてしまった。恥の上塗り。

 都合の悪いことは、どこまでも「うそ」で逃げようとする。これが「日本の教育を司る文部科学省の実体」だ。教育が荒廃しないわけがない。
 荒廃の原因を、彼らはすぐに日教組のせいにするけれど、他人のせいにするんじゃない、と言いたくもなる。

 初めから、「やらせ」を仕掛けておいて、バレると「うそ」で誤魔化す。
 「やらせ疑惑」と報道されているが、疑惑などではない。やらせそのものだ。こんな「うそ」を仕掛けて恥じない。それが「教育基本法改定」を叫ぶ政治家たちと高級官僚たちなのだ。

 そんな連中に「教育基本法」をいじくらせてもろくなことはない。そんなことよりもまずやらなければならないのは「政治家倫理法」や「官僚道徳法」の制定ではないか。


 2. 世界史履修漏れの言い訳の「うそ」

 まあ続々出てくるわ出てくるわ。例の「高校必修科目履修漏れ」事件。
 とにかく、受験のためならば、というご老公の印籠なみのご威光で、やらねばソンソン。その言い訳が凄い。
 
 むろん、教育委員会は「知らなかった」という「うそ」のオンパレード。しかし、その中でも笑ってしまったのが、ある名門高校の校長サンの素晴らしい言い訳。
 「オーストラリアに修学旅行へ行った際、国際的な知見を身につけることができたので、それで世界史履修の代わりになると考えた」と。

 これ、どう考えても「うそ」です。
 海外への修学旅行で世界史が履修されるのならば、地理も地学も美術だってさらには英語(外国語)だって、単位取得ということになるはず。そんなことは、この校長サンだって分かっていたはず。しかし、それでも「うそ」で切り抜けようとする。

 今更、教育者がそんなことでいいのか、なんて言うのも虚しすぎるけれど、校長が「うそ」をつくのに、生徒にだけ正しさを押し付けることなどできはしまい。どうするのだ、文部科学省よ。


 3. いじめ自殺事件に見える「うそ」

 さらに悲惨なのが、いじめ自殺についての「うそ」だ。
 もうここに出てくる「うそ」には、救いようがない。

 校長らが自殺した(自殺に追い込まれた)児童の家を訪れ「自殺の原因(の一部)にいじめがあったことを認め、謝罪します」と頭を下げる。ところが、次回に校長と教育委員会の人間が訪れると、なぜか今度は「いじめが原因だとは(今の段階では)認められない。もっとよく調査してから、再度ご報告に伺いたい」などと態度を豹変させる。
 そして、今度は報道が過熱し校長らの態度への批判が多くなると、「やはり、いじめが原因でした」と、不承不承認める、という経緯をたどるのがどうも一般的なのだ。
 すなわち、2度目の言い訳が「うそ」だったことになる。

 なぜこうも、校長や担任は「うそ」を繰り返すのか。
 答えは、はっきりしている。

 文部科学省→教育委員会→校長→担任、と続くヒエラルキーのもっとも劣悪なケースが、ここに露呈しているからにほかならない。
 文科省は責任を取りたくないから「いじめ自殺など、ない」との態度を崩さない。教育委員会は文科省の顔色を伺うばかりのヒラメ族だから、校長がいじめ自殺を認めてしまうと、文科省に対して申し訳が立たない(教育委員のほとんどは単なる名誉職で、とても文科省になど逆らえない構造になっている)。

 そこで、「あれはいじめが原因ではなかったはず」と、校長ら学校現場に圧力を加える。校長は自らの保身のために教委の言いなりになり、校長の権限を恐れる現場の教師たちは、知っていても口を噤む。
 この構造が「うそ」を生んでいるのだ。
 
 何度でも繰り返すけれど、何の問題もない現行の教育基本法をいじくるよりも、現場で起きているこの荒廃をまず糾すのが先決ではないか。
 厳しく言えば、これらの荒廃を招いている政治家たちの一掃こそが急務なのだと思えるほどだ。


 4. 核保有論にまつわる「うそ」

 もちろん「うそ」が、教育現場にのみはびこっているわけではない。
 もっとも観察しやすいのは、やはり永田町なのだろう。
 中川昭一自民党政調会長の「核保有」についての発言が止まらない。さらに、それを後押しする援軍が、麻生太郎外務大臣だ。

 ここには、重大な見過ごすことのできない「うそ」があると言わなければならない。どういうことか。
 
 2週前のこのコラムでも指摘した。
 中川氏は「私は非核3原則論を支持している。しかし、核を持つべきか否かは別問題。自由に議論すべきだ」。そして「北朝鮮が核保有を宣言した以上、日本も必要かどうかは、常に議論しておく必要がある」といった発言を繰り返している。
 しかし、ここには重大な誤魔化し、厳しく言えば「うそ」がある。
 「非核3原則を支持」しているならば、「この原則を守って、核廃絶のために我々が何をなすべきか」を議論するべきであって、「核保有の是非」を議論するというのは前提が間違っている。
 さらに「北朝鮮が核保有宣言したから、我が国も必要かどうかを議論する」というのは、政治家として幼稚というしかない。こんな発言が、どのような国際的反発を呼び起こすか、少しでも外交センスのある政治家ならば分かりそうなものだ。それとも北朝鮮並みに「国際的孤立も辞さず」ということなのか。


 もし本当に北朝鮮が核を保有したのならば、どうやってそれを破棄させるかを議論するのが当たり前の政治家としての反応だろう。

 厳しく言えば「うそ」がある、と前述したのはここである。
 中川氏も麻生氏も、ひいては安倍首相すら、本音を隠しているのだ。もし、本気で非核3原則を守り、永久に日本は核保有をしないと世界に向けて「非核平和国家」をアピールしたいのであれば、なにもこんなきな臭い時期にわざわざ世界の眉をひそめさせるような「核保有是非論」などを持ち出すことはあるまい。
 中川氏らは、今がチャンスと判断したのだ。平和な時期に「核保有論議」などを提起しても、誰にも相手にされない。しかし、現在の「北朝鮮憎し」の論調に乗ってしまえば、それほど批判はされずに持論を展開できる、との判断なのだ。

 百歩譲って、自民党内にも「核保有論」が湧き出ていて、議論しようという雰囲気が起きているなら話は別だ。しかし、自民党内部からさえ「何で今頃?」という疑問や批判が聞こえてくるだけ。
 核保有を認めよう、などという論調も雰囲気も、国民はおろか自民党内にさえまるでないにもかかわらず、この議論を繰り返すのは、どう考えても「核保有論」を認めさせたいからにほかならないだろう。
 でなければ、やはり議論は「どう非核3原則を維持し、世界にどう非核平和国家をアピールしていくか」「北朝鮮の核をいかにして破棄させるか」に議論を集中させるべきではないか。

 それをせずに、とにかく「核保有是か非かを議論しよう」というのは、どちらへ議論を誘導したいか、すでに尻尾を出しているようなものだ。
 ここが「うそ」だという論拠なのだ。


 自分の本音を隠して別のことを言いながら、議論を持論の方向へ導いていく。やはり、政治家としては相当に問題の多い人なのだと、思わざるを得ない。

 「私は核保有論者だ。非核3原則も間違いだと思っている。だから議論しよう」というのなら、筋は通っているだろう。しかし、「私は核保有論者ではない。しかし、核保有について議論しよう」と、誰も「核保有しよう」などと発言していないところで吠える。どう考えてもおかしい。
 いったい誰と、どんな議論をしようというのか。議論する相手などいないではないか。
 相手もいないのに、「核保有についての議論を」といい続けるということは、やはりこの二人は「核保有論者」であるとしか思えない。

「非核3原則支持」というのは、やはり「うそ」なのだろう。


 5. そして、安倍首相もまた「うそ」を

 これらの危険な発言を、安倍首相は叱責すらしない。野放し状態だ。
 彼もまた「非核3原則支持」だという。ならば、なぜこんな発言を許したままにしておくのか。疑問だ。
 安倍首相がかつて「小さな核ならば、それを保有することは憲法違反ではない」と発言したことは、有名な事実。
 「現在もその考え方は変わっておらず、自分が首相という立場ではそうは言えないから、盟友の中川氏に言わせて、支持基盤である右派陣営のガス抜きを図ってる」というのが、永田町ではかなり有力な説だ。
 とすれば、ここにも前述したことと同じ構造の「うそ」が隠れていることになる。前言を翻し続けている人だからそんなこともあるだろう、と妙に納得してしまうのがコワイ。


 先日、取材を兼ねて、ある政治家のパーティーに出席した。その場で挨拶に立った亀井静香氏が「安部さんはうそつきだ」と、聴衆の前で明言していた。笑い声が起きていた。
 あの亀井氏にすら「うそつき」呼ばわりをされる人が、私たちの国の首相である。

 吉田拓郎に『永遠の嘘』という曲がある。「永遠の嘘をついてくれ」というフレーズが印象的な歌だ。

 願わくば、中川氏も麻生氏も、そして安倍首相も「永遠に嘘をつき」続けてほしい。「非核3原則は守り続けます」という美しい「うそ」を。

 永遠につき続けた「うそ」ならば、それは真実になるだろうから。

 
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