戻る<<

雨宮処凛がゆく!:バックナンバーへ

雨宮処凛がゆく!

090429up

あまみや・かりん北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!〜難民化する若者たち〜』(太田出版)など、著書多数。現在は新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々(プレカリアート)の問題に取り組み、取材、執筆、運動中。非正規雇用を考えるアソシエーション「PAFF」会員、フリーター全般労働組合賛助会員、フリーター問題を考えるNPO「POSSE」会員、心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、ニート・ひきこもり・不登校のための「小説アカデミー」顧問。「週刊金曜日」「BIG ISSUE」「群像」にてコラム連載。雨宮処凛公式サイト

生きさせろ!
雨宮処凛の闘争ダイアリー

※アマゾンにリンクしてます。

日本と韓国とイラク。の巻

 この原稿がアップされる頃、私は韓国だ。
 韓国では、向こうの新聞などの取材も山程詰まっている。韓国のテレビ局による密着取材もあるようだ。「怒りのソウル」の韓国版が出版されるので、その出版社がコーディネートしてくれているのだが、日韓連帯インディーズ系メーデーへの韓国メディアの注目度は驚くほど高い。
 韓国でメーデーを終えたら、2日に日本に戻る。そうして韓国から2人を日本の「自由と生存のメーデー09 六十億のプレカリアート」に「招待」するのだ。既にイタリアには他のメーデー実行委員が「派遣」され、イタリアで連帯の輪を広げているものと思われる。
 「六十億のプレカリアート」というタイトル通り、まだまだささやかだけど、こうして「プレカリアート世界連帯」というか、「国境を超えた貧乏人のつながり」ができている。そしてそれは、自分たちを囲む世界をまるごと作り変えてしまうような試みだ。だけど、海外連帯は一言で言うとメンド臭い。まずは言葉が通じない。できない英語で無理矢理メールしていると、どんどん自分の思っていた方向と正反対の方向に話が進んでいたりする。なかなかいろんなことが決まらない。だからといって向こうの事情はわからないので口など出せない。普段はいろんなことを人任せにして面倒な交渉などしないでいられる。だけど、「メーデー」はそうはいかない。このメンド臭さがある意味醍醐味でもある。

 さて、憲法記念日が近いので憲法のことを書いてくれないか、と言われた。
 改めて「憲法」のことを正面から書こうとすると、これがものすごく難しい。
 いつも25条「生存権」のことばかり書いているので、ここはやはり「マガジン9条」、9条のことを書こうと思い立ち、そうして思い出したのは、やはりイラクのことだった。
 私が初めてイラクに行ったのは99年。24歳の頃だった。何度も書いているが、イラクは2度目の海外旅行で、一度目は北朝鮮だった。これが決定的に私のその後の人生に影響を与えたものと思われる。なかなか行けない場所には行っておくものだ。
 イラクに行ったのは、ライヴをするためだった。年に一度、当時のイラクではバビロンフェスティバルという国際音楽祭があり、世界数十カ国からその国を代表するミュージシャンが招待され、演奏する。そこに日本人の誰も知らない「維新赤誠塾」(当時私が組んでいた愛国パンクバンド)が「日本代表」として招待されたのだ。バース党と仲の良かった一水会の木村三浩さんの誘いだった。で、よくわからないままノリだけでOKしたところ、イラクに着いてからそんなオオゴトだと知ったのだ。イラクには40カ国くらいからその国を代表するようなミュージシャンが来ていて、中国からは中国雑技団まで来ていた(彼らはなぜかいつもホテルのバイキングのパンを大量に胸ポケットにぎゅうぎゅうに詰め込んで持ち帰っていた)。で、日本代表は日本人にまったく知られていない私たちのバンド。それでも日本語と英語とアラブ語で歌い、その模様はイラクの国営テレビで全国放送され、大統領宮殿でサダムの長男、ウダイ・フセイン氏と会見、というよくわからないけどなんだかすごい展開となったのだった。

 初めてのイラク行きは、極めて何も考えていない上、観光気分だった24歳の私に強烈に「戦争」を突きつけるものだった。湾岸戦争で破壊されたインフラが復旧しておらず、水道水は汚染され、コレラで沢山の人が死んでいた。病院に行くと経済制裁で薬の棚は空っぽ、子どもたちが治療もされずベッドに横たわっていた。ミサイルが落ちた現場に行くと、熱で溶けた人の骨が手の形のままで壁にびっしりと張り付いていた。バスに乗れば乗り合わせた大学生から恋人が死んだ話を聞かされた。病気だったそうだが、劣化ウラン弾の影響を彼は疑っていた。ストリートチルドレンの中には、見たこともないような皮膚病の子どもたちが多くいた。

 そうして沢山の人と知り合ったことが、03年、開戦直前のイラクに私を向かわせることになる。ただただイラクで出会った彼らの顔が浮かんだ。開戦直前のバグダッドには、世界中から反戦を訴える人たちが集まっていた。しかし、イラクから戻った1ヵ月後には、開戦。日本でテレビを見ながら、ほんの少し前に会い、語り合った人たちの顔が何人も何人も浮かんだ。メールをしても返事はなかった。一度だけ会ったウダイさんも殺され、無惨な死体写真がネットで世界中に晒された。

 そしてそんな頃、私の周りでは自ら命を絶つ人が何人もいて、更にこの国ではネット心中が流行し始めた。戦争で殺されるイラクの人と、自ら命を絶つこの国の人。イラク戦争に加担している日本の戦場性とは別に、「見えない戦場」とでも言うべきこの国で「生きられない」周りの人たち。03年、私の目の前には「戦場」であるイラクと、一応は「平和」とされるこの国で次々と命を絶つ人々の姿が同時にあったのだ。

 その3年後、私はネットで見つけた「自由と生存のメーデー」の告知文を見たことがきっかけで集会とデモに行き、プレカリアート運動にかかわることになる。そこにはこんな言葉があった。

「私たちはばらばらに切り分けられながら、この国で戦争を戦わされている」

 いつしか「戦争」は遠い国のものではなく、自分たちの足元に「命賭けの生存競争」という形で押し寄せてもいた。
 それから3年後の09年、私は日韓連帯メーデーのため、メーデーを韓国で迎える。韓国の自殺率は日本と同じか少し高いくらいだとも聞いた。徴兵制のもと、兵役拒否をすれば1年以上監獄にブチ込まれる韓国で、戦争や貧困、そして生存について、大いに語り合ってくるつもりだ。

※韓国でのメーデーイベントの様子がネットで生中継される予定です。アドレスはこちら。1日昼のデモをライヴでお届けする予定。しかも時間はなんと未定。

 また、2日、3日の東京「自由と生存のメーデー」には私も参加します。ぜひ! 3日は渋谷でプレカリアートサウンドデモ!! 韓国からは「韓国版・だめ連」とでも言うべき「ペクス連帯」と「西部非正規労働センター」の女性が来る予定!

更に5月1日には夕方に阿佐ヶ谷メーデー&夜には阿佐ヶ谷ロフトで「自由と生存のメーデー」前夜祭! なんと韓国とミラノから生中継をする予定! 私もソウルから登場するので阿佐ヶ谷ロフトに集まれ! すべての情報はこちらで。

この前の「ないかくだとう」デモにて。

爆弾やミサイルによって人が殺され続ける「戦場」と、
平和なように見える光景の陰で、
多くの人の命が脅かされている「戦場」と。
二つの戦場は、たしかにどこかでつながっている。
ご意見、ご感想をお寄せください。

ご意見フォームへ

ご意見募集

マガジン9条