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あまみや・かりん北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!〜難民化する若者たち〜』(太田出版)など、著書多数。現在は新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々(プレカリアート)の問題に取り組み、取材、執筆、運動中。非正規雇用を考えるアソシエーション「PAFF」会員、フリーター全般労働組合賛助会員、フリーター問題を考えるNPO「POSSE」会員、心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、ニート・ひきこもり・不登校のための「小説アカデミー」顧問。「週刊金曜日」「BIG ISSUE」「群像」にてコラム連載。雨宮処凛公式サイトhttp://www3.tokai.or.jp/amamiya/
朝日ニュースター「ニュースにだまされるな」の収録で、中村うさぎさんと金子勝さんと。
大塚英志さんの「護憲派の語る『改憲』論一一日本国憲法の『正しい』変え方」を読んだ。
読んでみて、驚いた。私が登場していたからだ。大塚氏は「彼女はニートやフリーター問題を、この憲法の『生存権』の問題として捉えなおそうとしている」と書いている。それでは今さらだが、憲法第二五条を見てみよう。
第二五条 生存権、国の生存権保障義務
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
大塚さんはここから、「つまり、憲法には『競争で負けたやつは死ね』とは書かれていません」と指摘する。その通り、「生きる権利」は当り前だが保障されているし、国はそれを保障すると憲法に書かれているわけだ。
さて、またまたこの本から興味深かった箇所を引用。
「この十年間、ニート、フリーター、ひきこもりといった、今の三十歳くらいの人たちにいろんなレッテルが貼られてきたのを見ていて、ぼくから見たらそれらは全部、ある本質的な問題を隠すためのやり過ごしのような気がしていたんですね。
本質的な問題とは、彼らの置かれているのは彼らの『生存権』をめぐる問題だということです。つまり、憲法が保障する最低限の生活を、ニートやフリーターたちは行使できない状態にあるんじゃないかと思ったのです。そのことが『自己責任』の名の下に問題化されない。フリーター問題というのは、生存権という本当の問題を立論させないための論議だった気がします。雨宮処凛はそこを突いたわけです」
護憲派の語る「改憲」論
大塚 英志
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なるほど。大塚さんの指摘によって、今さらながら自分の中でもこの問題の本質が整理されてきた。では、私がかかわるプレカリアート運動は、いつから「生存権」という柱が立ったのだろう。気がつけば、「生存権の問題だ」ということが共有されていたように思う。だからこそ私は、「群像」で連載中の「プレカリアートの憂鬱」に、毎回「生存権」の文章を入れている。連載を読む人はまず憲法二五条に目を通してから、現代のプレカリアートたちの実態を読むことになるのだ。
憲法問題としてのフリーター問題。実際に本気で「生存権」が脅かされている人々、そしてそんな状況を目の当たりにしていた人々から生まれた問題意識。
そして二五条の問題は、当り前だが九条に繋がっていく。というかモロに地続きだ。イラク戦争に駆り出されたアメリカの貧困層の若者たちを見ればそれはすぐにわかる。戦争に行くのは貧困層。そこで真っ先に死ぬのは貧困層。彼らは大学に行けるなどと吹き込まれ、その果てに死体となって星条旗に包まれ帰国する。今読んでいる『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』(堤未果・海鳴社)には、軍による驚くべき貧困層リクルートの実態が描かれている。ちなみにこの本は『生きさせろ!』と同じJCJ賞を受賞している。ちょっと嬉しい。
報道が教えてくれないアメリカ弱者革命
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貧困と戦争。そして貧困によってどこまでも軽くなる人の命。
そんなことを考えている時に、戸梶圭太の小説『自殺自由法』の解説を書くことになり、読み返した。大きな声では言えないが、私は彼の小説が大好きで(なぜ大きな声で言えないかは彼の作品を読んだことのある人ならわかるだろう)、そこからいつも逆説的な教訓というか、ものすごい問題提起を読み取ることを喜びとしている。今回の小説は、タイトル通り「自殺自由法」という法律が施行されるという内容だ。「自殺自由法」は以下の通り。
「日本国民は満十五歳以上になれば何人も自由意思によって、国が定めたところの施設に於いて適切な方法により自殺することを許される。但し、服役者、裁判継続中の者、判断能力のない者は除外される。」
小説の中、この法律により人々は「死ぬ自由」を手に入れ、そして死なずにわざわざ生きるためには「生きる意味」や理由を問わなければならなくなる。辛いことがあったら死んじゃえばいい世界ではもはや宗教にも文学にも意味がなくなり、心理カウンセラーなどは「役立たず」と同義語になる。そして各自治体によって「生きる価値なし」と判断された貧乏人や高齢者、元犯罪者などのもとには連日市の広報カーが乗り付け、執拗に執拗にアナウンスを繰り返す。「明日は自逝センターの執行日です。執行は九時半、十一時半、十四時、十六時、十九時、の五回です」「完全無痛方式を採用し、待ち時間も少なく、快適にご利用いただけます」「家族専用の個室も用意いたします。お気軽に窓口でお申し出ください」。
「早く死ね」と迫るのは自治体だけではない。家族に「役立たず」と思われている若者のもとには親族が押し寄せ、「あなたのことをみんな真剣に考えているのよ」と言いながら自殺を勧める。慈愛に満ちた目で。
小説の中、ある女性が言う一言が07年の今を正確に表している。
「世の中には、自殺が自由になるよりももっとずっと前から、競争に負けた人間や失敗した人間はさっさと死ななきゃいけないっていう風潮があったじゃないですか」
「自殺自由法」と「生存権」。
なんか、この辺に考えておくべき大きなヒントがある気がするのだ。
自殺自由法
戸梶 圭太
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